怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

神との盟約

ぼくはこれまで、神様に、純粋に心の底から、真剣にお願いをしたことが2度ある。一度目は、小学1年生だった6歳の冬の時、二度目は、福島原発事故のあった3月15日だった。

ぼくは早生まれだったから、1年生になってもまだ7歳の誕生日は来ていなかった。冬は雪が積るからゴム長靴と決まっており(当時はそれ以外の選択肢はなかった)、ぼくもそれに倣って長靴だった。それは、今シーズンに買ったばかりのまだ新しい黒い長靴だった(銭湯なんかに行くと非常によく似ているもんだから、間違えて履いていったりすることがよくあったものだ)。

母は、成長してすぐに履けなくなるのはもったいないから、という理由で、いつもわざと大きめの靴を買うのだった。そうすれば、来年のシーズンにも履くことができるからだ。となると当然のことながら、今はサイズが大きすぎるわけである。だから長靴はガフガフして、すぐに脱げ易いのだった。雪の中を歩くと足が埋まって、スポッと抜けてしまう。そんな大きめの長靴ではあったけれども、気に入っていたのだった。

ある日、近所の友達数人と外で遊んでいて、近くにある小さな川に行ってみたのだった。母には、危険だから、川の近くには行くなと言われていたが、何となく友達の後をついて行ってしまったのだった。川までの雪は深く(勿論道なんかない、田んぼの上を横切るだけ)、時々ズボっとぬかってしまい、度々長靴が脱げた。

川は一部凍っていたが、雪の乗った氷の下には、水が勢いよく流れていた。水田なんかに使われる灌漑用水の水路だったのかもしれない。深さはさほどではなかったが、流れの速さはそこそこだった。

ぼくは当時まだ小さかったので、川の上に飛び乗るだけのジャンプ力がなかった。でも、水の見えるギリギリまで近づいて氷の塊(中島みたいになっていた)に飛べるかどうかを算段していた。そうしたら、足がズボっと雪の中に落ち、右足が冷たい水に突っ込んでしまった。

雪庇みたいに川の上に張り出していただけの部分に、右足が乗ってしまっていたのだった。そうすると、長靴は下に落ち、川に流されていってしまった。水面を浮き沈みしながら、黒い長靴はまさしく「どんぶらこどんぶらこ」と流れていき、見えなくなってしまった。ずっと下流の方にある、流れの速い急傾斜(45度くらいの滝ふうになっている所)のある方へと行ってしまったからだった。

ぼくはずぶ濡れになった右足で雪の上を歩いた。
家までの道のりは、足が凍るほど冷たかった。濡れた靴下で雪道を歩いたのだから、それまで経験したどんな状況よりも冷たかった。

家に着くなり、濡れた靴下を脱ぎ捨て、半べそになりながら仏壇の前に座った。「ごめんなさい、どうか長靴を返して下さい、長靴が戻りますように」
礼拝(らいはい)を何度も続けた。
まるでイスラム教徒が聖地に向かって何度も礼拝するかのように、何度も何度もひれ伏した。そうして、長靴が戻りますように、どうかお願いします、と祈った。


あまりの真剣さで後ろに母が立っていることに、全く気付かなかった。外出先から戻った母は、ぼくの真剣で異様な祈りの現場を黙って見ていたらしく、怒ることもなく、どうしたのか尋ねたのだった。

ぼくは、最初、ウソを言った。雪の中に埋まってしまったんだ、と。
だが、ウソを言い続けるには、非常に苦しい状況だった。ぼくは母と一緒に、長靴が流された現場へと戻った。どこにも長靴が埋まってなどいなかった。それはそうだ。川に流されたのだから。

そうして、川に辿り着いた時、母は明らかに怒っていた。川には行くなと言っておいたのに、ここで遊んでいたのだから。母はゴム長靴が流されたという下流の方をしばし見て、帰るよと言った。既に日暮れで薄暗くなっていた。


次の日、とりあえず夏靴で学校に行った。脚絆をして行けば、雪の中をどうにか歩くことはできたから。

学校から家に帰ると、ストーブの前には、いつもの見なれたぼくの長靴が2つ並んでいた。長靴の中に雪が入ると冷たいので、濡れた内側を乾かせる為にストーブの前に並べて干しておくことがよくあったものだ。
その光景がぼくを驚かせた。突然、小躍りして「神様が戻してくれたんだ」とぼくは心の中で叫んだ。どうやって戻ってきたんだろう?奇跡が起こったのかな?誰か持ってきてくれたのかな?それとも買ったのかな?

どうしたの、これ、買ったの?と尋ねたら、母は笑いながら言った。
「神さんが持ってきてくれたんだよ」
どうやって?と問い返すと、母は下流に行って長靴を見つけてきたのだと言う。流木みたいなのが溜まっている部分に、引っ掛かって残っていたのだそうだ。


ぼくは、やっぱり神様が取り戻してくれたんだ、と思った。きっと、ぼくの願いを聞いてくれたに違いない、と。


このことは、誰にも話すこともなく、ずっと記憶の片隅に仕舞い込まれたままだった。自分でも思い出すことなど、これまでなかったことだった。原発事故が起こるまでは。



福島原発が次々と爆発し、いよいよ観念かと思ったのが、2011年3月15日だった。

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2度目の真剣な祈りは、この時だ。


ぼくは、15日未明から気が気ではなかった。胸が早鐘のように鳴った。どうしてこれほど不安なのか、理由ははっきり分からなかったが、兎に角福島原発の状況にただならぬものを感じていた。


正確な情報がないまま、政府も無策、東電も手の打ちようがない、そんな雰囲気だった。1号機に続いて3号機が爆発し、2号機も危機的状況ということだけが報じられていた。そして、4号機にも火の手が上がっている、というような報道が出ていた。

このまま行けば、日本は本当に人の住めない場所になってしまうのではないか、日本は大変なことになってしまうのではないか、そういう危機感が襲ってきた。頼るべき人が、どこにもいない。誰もいないのだ。

どうすればよいか、的確に答え、正しい対処方法を示せる人間が、政府の偉い人たちの中にも、専門家たちの中にも、どこにもいないんだということを知った時、圧倒的無力を痛感した。どうにもできない、抵抗すらできない、ただただ無力。事態が悪化してゆくのを、黙って見ているのみ。


事故現場で作業を続ける人々がいるということが、奇跡といってもよかった。しかし、次々と砦を失って退却を続ける戦場のような感じだった。残されたのは、ほんのわずかの砦一つで、ここを失えば総崩れとなってしまう、そんな状況だったはずだ。


ぼくには、なんにもできない。何の手助けもできない。
ただ祈るのみだった。

だから、神様にお助け下さい、と祈った。
どうか現場にいる彼らを守って下さい、日本をお守り下さい、と祈った。


こんな真剣な祈りは、あの小学1年生以来だった。



偶然にも、その後に4号機の鎮火が伝えられた。そして、消防庁はじめ放水部隊が水をかけに行くことができて、事態はどうにかギリギリで小康状態に押しとどめられたわけである。現場の、死をも覚悟した人々がいなかったら、本当に日本は終わっていた。

ぼくには、あの長靴の時と同じように、神様に祈りが届いたのではないか、と思えたのだった。
忘れていた、小学1年の時の、あの真剣な祈りの記憶は、福島原発事故の時に呼び覚まされた。勿論、長靴を拾ってきたのはぼくの母だったし、水をかけて冷やしたのは現場の作業員たちや消防や自衛隊の人々だったろう。

けれど、もうダメだ、と思った後に「偶然長靴が流木に引っ掛かって流されずに済んだ」とか、「偶然4号機の鎮火が起こり更なる惨事に至らずに済んだ」というのは、不思議としか言いようがない。



ぼくには、約束があったんだ。
それは、祈った時に誓った、「鎮まって後に糺す」ということだ。これは神様に誓うと心から思ったことだ。だから、ぼくにはその盟約を守らねばならない義務がある。
たとえ神様がいないと言われようとも、ぼくの心の中の盟約に背くことはできない。ぼくは無知な傍観者であった、そのことが日本の原発政策を誤らせてきたのだ、と反省せねばならないのだ。

以前と同じように再稼働させよう、などという愚かな選択を二度と彼らにさせてはならないのだ。ぼくの中にある、固い盟約なのだから。神様との約束だから。