怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

中央銀行の金利操作は不要なのか

拙ブログでの主張に対する、よくありがちな指摘ではないかと思う。当方が経済学的な妥当性を検証できるわけではないので、本当に正確であるかどうかは何とも言えない。


http://econ101.jp/%e3%80%8c%e5%ae%89%e5%80%8d%e9%a6%96%e7%9b%b8%e3%81%ab%e5%91%8a%e3%81%90%ef%bc%81%e3%80%80%e3%80%8e%e3%83%ab%e3%83%bc%e3%82%ba%e3%83%99%e3%83%ab%e3%83%88%e3%81%ae%e9%81%8e%e3%81%a1%e3%80%8f%e3%82%92/


拙ブログにおける、賃金を引き上げ方向へと操作するというのは、何も社会主義国になれ、とかいう話ではない。また、労組を圧倒的強者に仕立て上げよ、ということを求めているものでもない。
日本では、労組の名を借りた「経営陣と一体化」した隠れ蓑みないな組織もあったろうし、JALなんかの例を見れば労組の混迷ぶりがわかるかもしれない。行政と「連合」の関係を見ても、霞が関官僚―経団連―連合という非常に強固な体制側組織ということが見てとれるだけであろう。そんな労組に更なる強権を分け与えたところで、一般労働者の地位・待遇向上になることなどないだろう。経営陣の代弁者か、労組系議員たちのように体制側の手下となるだけである。


拙ブログでは、賃金の改定率を暫くの間はそこそこ定常的な水準で…例えば最低賃金を年率1〜2%の伸びで…といったことを求めているのであり、職種毎に「いくらにせよ」みたいな固定賃金制を求めてはいない。基本的に賃金水準を決めるのは、個別企業の経営裁量であろう、ということは認めているわけである。
しかしながら、過去のデフレ期間で見れば、賃金上昇というのがほぼ得られてこなかった、というのが現象面での事実であると思われ、それをプラス回転へと変えない限りは、デフレ脱却というのが難しい(=金融面だけの支援では効果的とも思えない)ということだ。


例えばこのヘン

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/99e9c190457dba2c705e38e02ca1da5a

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/181df2a32c66b7a04527c140651037b4



よく経済学理論を重視する人々が言うものに、市場で決まるものには手をつけるべきではない、みたいなものがある。需給で決まるんだ、と。
確かにそれが妥当である局面は多い。


そうした原理原則を重視する人間なのに、どういうわけだか人為的操作を認めていることがある。それは、政策金利という、金利操作だ。


均衡金利は市場で決まるのであれば、別に金利操作をする必要などないのではないか?
これこそまさしく、放っておけ、ということなるんじゃないですかね?市場が決めるのが正しい、ということではないのかな?


経済学理論で云々という人たちは、どの部分に操作するのを認めるのか、自分の好みか何かで決めているかのようだ。単に恣意的選択によって、介入なりを正当化しているだけなのではないかと思える。


経済学の生産関数には、賃金というのが入っていることがあるわけで、操作変数としてこれを選ばない理由というのは、必ずしも明確ではないだろう。
同じく、金利というのも関数の一部となっていることは多々あり、これが市場で決まることに反対する経済学者はそう多くはないだろう。にも関わらず、何故か金利操作は中央銀行の役割として認めているように見えるわけである。市場で決まるという経済学の理屈を当然視しているのであれば、何故金利操作を許容するのかが理解できない。


労働者数増加という形で労働投入が増加した期間において、賃金低下とデフレを生じたのであれば、賃金を操作変数とみなして政策的アプローチを考えることに意味がないとは思わない。
同じ生産量であっても、賃金水準が引き上げられた場合に労働投入が減少することで保たれるのであれば、出産適齢期にある女性たちの労働時間を縮小することが可能になるかもしれない。


どの部分に効かせるか、というのが政策の違いを生むはずであり、それは薬物と似たものであるように思われる。気管支拡張薬が血圧や心機能に変化をもたらさない、というものではないかもしれないということである。主な作用部位と目的とは違っていても、作用を持たないわけではない、ということだ。


賃金水準に介入すべきでない、というのと同じくらいに、金利に介入すべきでないと、経済学理論信奉者ならば主張すべきである。金利操作を認めるのであれば、他の変数がダメなのに金利だけはよいということについて、同一の経済学理論で証明すべきだとしか思えないのである。