怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

福島原発事故を巡る東電の大罪〜11

これまで、いくつかの疑問点を書き出してみたわけだが、東電の言い分では整合的な説明がつかないことが多々ある、とは思う。東電が正確な情報を隠してしまった為に、今では分からないことが多いだろう。


3月11日当日、何か重大な隠蔽があったことが推測されるのである。

例えば、福島第一のプラント全体には当時約6400人もの人々が働いていた、ということである。各号機の中操とか、免震重要棟などに分散したとしても、数千人も収容できたとは到底考えられない。

事故後の免震重要棟に詰める人々が数百人規模だったと記憶しているが、廊下まで人があふれていたようであった(それとも、オフサイトセンターだった?)。


多くは避難したのは分かるが、謎も多い。
4号機は稼働しておらず、作業中だったそうだ。そこには最も多くの作業員たちがいたようである。恐らく千人以上いたであろう。
福島第一全体では約2400人が管理区域内での作業に従事しており、退出ゲートに人が殺到したということであった。3/4号機サービス建屋の出口付近が最も混雑したようである。


五千人以上が駐車場広場に集合したとして、全員が行動するのには時間がかかる。どうやって行動決定をしたのだろう?

普通、地震が来た後で、ビルから飛び出して、一目散に逃げたりするだろうか?多分、そういうことは少ないんじゃないだろうか。
地震後に、被害状況が分からない中、仕事場から各自三々五々で解散とか、帰宅ということになるだろうか?
指示を待つ為に待機してた?津波が来るまでは、6千人くらいの人たちが駐車場なんかで、集合していたということなのか。そんな広さがあったのだろうか。よくわからない。

地震後に、各自が自主的判断で発電所の敷地内から出ていった、ということであると、何となく「そうかな」とは思う。つまりは、何らかの理由で逃げたのではないだろうか、と。


少なくとも、建屋内から急いで逃げなくてはならない状況であった、ということは分かる。タービン建屋にいようものなら、「生命の危機」を感じさせるような状況だった、というようなことだ。稼働してない4号機でさえ、だ。


仮に、津波までは駐車場に6千人以上の人たちが待っていたとして、その後にはどうしたのだろう?稼働に直接関与しない人たちは、敷地外へ退去するように命令が出たということだろうか?

でも、復旧作業には膨大な人手が必要になるかもしれない、というのに?
次の津波襲来があるかもしれないので、逃げられる人たちは逃げろ、ということだったのだろうか?


地震後に、どこも壊れておらず、建屋(原子炉含む)内のパラメータも何ら問題がなかったのであれば、作業員たちを戻して損害状況の確認作業などをやってもよかったように思うのだが、そうした点検等は行った形跡がない。単に駐車場に逃げた、出口に人が殺到した、ということが分かるだけである。


とりあえず、津波が来てからは、被害を受けると危ないので、千人程度の社員や作業員の人を残して、他の約5400人の人たちは自分たちの車などで逃げた、ということで話を進めますね。津波が来たのが15時半過ぎ、その後に、数千台もの車が敷地から退去するのに、どれくらい時間がかかるでしょう?

門が2つしかなく、正門と西門だけだそうです。
TDLの駐車場の出口を見たことがありますか?多分、あんな感じかな、と。千台以上の車が退去するのには、非常に長い時間がかかるでしょう。津波被害の後、どうするか判断するまで10分程度として、16時少し前くらいから車で脱出が始まる、ということですね。東電が10条通報した後くらいから、ということです。大混乱の道路状況だったでしょう。
けど、駐車場に逃げた人たちの身体サーベイ開始が15時50分だったそうで、どうも謎が多いです。


そんな中、モニタリングカーが16時半に出発しているのだそうです。
モニタリングポストの電源供給は、交流電源喪失時でも計測できるようになっているはずですが、何故か数値が分からなくなってしまったからなのだそうです。直流があるはずでは?


とりあえず、モニタリングカーは17時に体育館付近で測定したそうです。その後、複数ポイントで計測したり、西門や正門に行き、19時45分以降は正門での計測を続けたということだそうです。


一方、正門あたりの道路が損害受けた、ということで、道路の補修が行われたんだそうです。何と、正門方向に徒歩で道路の損害確認に向かった、ということらしいです。車で退去した人たちは、それまでいなかったということでしょうか。歩いて点検するなら、どうしてモニタリングカーがあるのに、それで一回りした方が早くないですか?正門から出て西門も確認とか、時間がかかりすぎるに決まっていますよね。

分かったことは、19:24に、
「西門は通行可能」「旧事務本館前は通行不可能」「2号機タービン建屋海側は通行不可能」などを対策本部に報告した
ということだそうです。


どうして、モニタリングカーが出た時に、それらを一緒に報告できなかったのでしょう?道路状況がどう、という話をするなら、モニタリングカーが行けるかどうか、正門や西門はどうか、ということくらい、車で見ればいいじゃないですか。しかも、身体サーベイなしで出ようとした人たちを保安斑が止めに行ったのは17時ですよ?


どうも辻褄が合わないわけです。


日没後では、確認作業が困難になることは明らかだったでしょう。
電源が落ちて真っ暗だ、という時(15時半以降)に、何故直ちに発電設備の損害状況確認に向かわなかったのでしょう?

1号機T/Bを見に行ったのは18時過ぎです。それまで、何をしていたんでしょう?
16時36分頃の15条通報から、1時間以上も何を待っていたのでしょう?

モニタリングカーが出た、というだけでは?
日没後だった為、暗闇の中を建屋周辺を徒歩で探索するのは時間がかかるに決まっていますよ。

どうして、自衛隊のヘリでも寄こさなかったのでしょう?
警察ヘリでもいい、サーチライトがあるなら、それで照らしてもらえるだけでも、随分と助かるのでは?

道路状況とかなんて、ヘリで上空から見てもらえば、日没前なら直ぐに判断がつきそうだったのでは?


要するに、当日には、人員は数千人規模でいたはずだった、日没までにできる確認作業を行わなかった、M/CやP/CやD/Gを確認しに行ったのは、18時以降だった、ということです。

中央制御室の人たちの中からは、誰も確認の為に下に降りていかなかった、と。わざわざ遠くの免震重要棟から徒歩で行った、と。中央制御室からサービス建屋1階に降りられるなら、そこからタービン建屋内に入ることが非常に困難であるというのは、どうしてなのかが分からない。


当日、何をどうしてよいのか、誰にも分かっていなかった、と。
しかも、危機的状況である、という認識が決定的に欠けていたのではなかろうか、と。
30分、1時間が生死を分かつという状況であったのに、そういう対応がとられていなかったのではないのか。


恐らく、中央制御室では混乱の極致となっており、何が何だか分からない、と。どうしていいのかさえ、誰にも分からなかった、と。しかも保安院に連絡したものの、東電がきちんと情報を伝えてなくて、保安院としても何をアドバイスすべきなのか、見当もつかなかったのでは?

それは、東電が非常にマズい状況であることを、「言いたくない」「おおごとにはしたくない」「責任を問われたくない」というようなことの積み重ねだったのではないのか。

「一体どうなってるんですか?」「それが、よくわからないんです」
これの繰り返しでは、物事が先には進まんだろう。



原子力緊急事態宣言は、19時過ぎに発出されたのだった。
時すでに遅し。