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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

日本国憲法と第9条に関する論点整理〜3


○芦田委員長 更に問題を具體的に考へまして、改正案第九條を檢討致しますと、ここに三つの問題があると思ひます
 第一は、法案第九條の規定に依れば、我が國は自衞權をも抛棄する結果となるかどうか、此の點は本委員會に於て多數の議員諸君より繰返し論議せられた點であります
 第二には、其の結果日本は何だか國際的保障でも取付けない限り、自己防衞をも全うすることが出來ないのか、延いて他國間の戰爭に容易に戰場となる虞はないかと云ふ點であります
 第三は、一切の戰爭を抛棄した結果、日本は國際聯合の加盟國として武裝兵力を提供する義務を果すことが出來ないから、國際聯合への參加を拒否せられる虞はないかと云ふ諸點であります
 以上の三點に付て國際聯合憲章の規定と照し合せて考へる場合、私は次の如き結論が正しいのではないかと思ひます、不幸にして自衞權の問題に付ての政府の答辨は、稍明瞭を缺いて居ります、自衞權は國際聯合憲章に於ても第五十一條に於て明白に之を認めて居ります、唯自衞權の濫用を防止する爲に、其の自衞權の行使に付ては安全保障理事會の監督の下に置くやうに仕組まれて居るのであります、憲法改正案第九條が成立しても、日本が國際聯合に加入を認められる場合には、憲章第五十一條の制限の下に自衞權の行使は當然に認められるのであります、唯其の場合に於ても、武力なくして自衞權の行使は有名無實に歸するではないかと云ふ論がありませう併しながら國際聯合の憲章より言へば、日本に對する侵略が世界の平和を脅威して行はれる如き場合には、安全保障理事會は、其の使用し得る武裝軍隊を以て日本を防衞する義務を負ふのであります、又我が國に對しましても自衞の爲に適宜の措置を執ることを許すものと考へて多く誤りはないと思ひます、此の點に付て政府の今日までの御答辨は、稍明瞭を缺くやに考へられますから、此の場合明白に其の態度を表明せられんことを希望致します(拍手)

○金森國務大臣 將來國際聯合に日本が加入すると云ふことを念頭に置きまする場合に、現在の憲法の定めて居りまする所と、國際聯合の具體的なる規定が要請して居りまする所との間に、若干の連繋上不十分なる部分があることは、是は認めなければならぬと思ひます、併しながら其の時に何等かの方法を以て此の連絡を十分ならしるむ措置は考慮し得るものと考へて居りまして、必要なる措置を其の場合に講ずると云ふ豫想を持つて居ります

○芦田委員長 法第九條に關する第三の點、即ち日本が一切の戰力を廢止する結果、國際聯合國としての義務を果し得なくなるから、聯合加盟を許されないかも知れないと云ふ論、餘りに形式論理的であります、日本が眞に平和愛好國たる事實を認められる場合には、斯かる事態はあり得ないと考へて間違ひはないと思ふのであります何れに致しましても本改正案の目標は、我が國が國際聯合に加盟することに依つて初めて完全に貫徹し得るものであることは明かであらうと思ひます、けれども問題はそればかりで終るのではありませぬ、日本が平和國家、文化國家として内外に認められるに至るには、我が國民の間斷なき努力を必要とするもとと信じます、私は最近文化國家と云ふ文字が、餘りに手輕に易々と叫ばれることに不安の念を抱くものであります、一つの民族の實力、世界に於ける地位民族生存の意義、人類に對する責任、總て是等が文化にあると云ふことは、心ある者の皆知る所であります、然るに日本の今日に立至つたのは、現代に住む我々日本人が歴史最大の過ちを犯したと云ふのは、全く日本の文化の程度が低く、其の内容が貧弱であり、又文化の精神と本質とが國民に十分理解せられて居なかつたことに基くものであると信じます(拍手)此の憲法改正案を提案された吉田内閣は、單に紙に書いた案文を議會に呑込ませることを以て責任が終るのではありませぬ此の憲法の目指す方向を國民に理解させ、憲法改正の裏付けとなるべき國民文化の向上に渾身の努力を致さるべきであると思ひます(拍手)それのみが戰爭の勃發を防止する方法であるとさへ信ずるのであります、吉田内閣は此の畫期的な時期に國民指導の大責任を負うて政府に立たれました、此の機會にこそ閣僚諸公は奮起して國民の自覺を呼び起し、世界に呼び掛けて國際平和の實現に挺身せらるべきであると思ひます、然るに憲法改正案の審議に於てさへ、閣僚諸公の熱意は甚だ上らざるが如くに見えまするが故に、此のことは決して國民を安堵せしむる所以ではないと思ひます、幸ひ吉田内閣には多年憲政の爲に盡瘁せられた多くの政治家を持つて居られる是等の政治家が眞に其の熱意と其の氣魄とを以て國民の指導に當られることは、我我の日夜念願致して居る所であります、之に付て政府より答辨を得ることは期待致して居りませぬ、併しながら若し何等か此の際其の所信を御表明下さるならば、喜んで拜聽致したいと思ひます(拍手)

○金森國務大臣 總理大臣から御答辨を願はうと思つて居りましたが、私が此の問題に付きまして、當面の責任の地位に立つて居りまするが故に、一言御答へする御許しを願ひたいと存じます、此の憲法は御覽の如く、又御承認を多分は載いて居るかの如く、何千年の歴史を經過致しました日本に於て、未だ曾て考へられたこともない大いなる變革を齎すものであります、我々は單に變革を齎すことを目的として居るものではない、眞に此の變革の現實の效果を世界の舞臺に於て、又日本國民の爲に完全に遂行して、有終の美を遂げたいと思ふのでありまして、此の憲法の草案は、是は確かに「インク」を以て書かれて居るものでありますけれども、私共の立場から申しますれば、全精神を以て之を文字に表はしたものと信じて居るのでありまして、今委員長から御話になりました點は、今までの私共の態度が惡かつたかも知れぬ、或は努力が足りなかつたかも知れませぬが、内心は決してさうではない、十分此の憲法を實現し、同時に日本全局の文化國家建設の一路に、唯私一人の立場をここに挟んで申しますれば、捨石の捨石となつても宜しいと云ふ信念の下に臨んで居る次第であります(拍手)


ここでも「文化国家」なる文言が出るわけですが、日本が戦後に目指したのは、軍事国家や覇権国家などではなく、平和と安全を大事にする文化国家だったのだ、ということです。包丁もそうすると、「文化包丁」ということになるくらいの、安全を求める国、国民に生まれ変わりましょう、とそういうことだったのです。ふざけすぎました。

ただ、自衛権は放棄してないんだ、と。けれども、裸一貫なんだから、戦力はないので、現実問題として軍もないわけだし、軍備もないから行使できない「見えない権利」みたいなものであり、交戦権もない、と。そういうことにならざるを得ないんだ、と。
こんな話は、制定前の最初っから分かっていたことだったのです。



1946年8月25日 衆議院本会議

芦田均君 本日いとも嚴肅なる本會議の議場に於て、憲法改正案委員會の議事の經過竝に結果を御報告し得ることは深く私の光榮とする所であります
 本委員會は六月二十九日より改正案の審議に入りまして、前後二十一囘の會合を開きました、七月二十三日質疑を終了して懇談會に入り、小委員會を開くこと十三囘、案文の條正案を得て、八月二十一日之を委員會に報告し、委員會は多數を以て之を可決致しました、其の間に於ける質疑應答の概要竝に修正案文に付て説明致します
(中略)

「第二章戰爭の抛棄」に付て説明致します、改正案第二章に於て戰爭の否認を聲明したことは、我が國家再建の門出に於て、我が國民が平和に對する熱望を大膽率直に表明したものでありまして、憲法改正の御詔勅は、此の點に付て日本國民が正義の自覺に依り平和の生活を享有することを希求し、進んで戰爭を抛棄して誼を萬邦に修むる決意である旨を宣明せられて居ります、憲法草案は戰爭否認の具體的な裏付けとして、陸海軍其の他の戰力の保持を許さず、國の交戰權は認めないと規定して居ります、尤も侵略戰爭を否認する思想を憲法に法制化した前例は絶無ではありませぬ、例へば一七九一年の「フランス」憲法、一八九一年の「ブラジル」憲法の如きであります、併し我が新憲法の如く全面的に軍備を撤去し、總ての戰爭を否認することを規定した憲法は、恐らく世界に於て之を嚆矢とするでありませう(拍手)近代科學が原子爆彈を生んだ結果、將來萬一にも大國の間に戰爭が開かれる場合には、人類の受ける慘禍は測り知るべからざるものがあることは何人も一致する所でありませう、我等が進んで戰爭の否認を提唱するのは、單り過去の戰禍に依つて戰爭の忌むべきことを痛感したと云ふ理由ばかりではなく、世界を文明の壞滅から救はんとする理想に發足することは言ふまでもありませぬ(拍手)
 委員會に於ては此の問題を繞つて最も熱心な論議が展開せられました、委員會の關心の中心點は、第九條の規定に依り我が國は自衞權をも抛棄する結果となるかどうか、自衞權は抛棄しないとしても、軍備を持たない日本國は、何か國際的保障でも取付けなければ、自己防衞の方法を有しないではないかと云ふ問題、竝に我が國としては單に日本が戰爭を否認すると云ふ一方的行爲のみでなく、進んで世界に呼び掛けて、永久平和の樹立に努力すべきであるとの點でありました、政府の見解は、第九條の一項が自衞の爲の戰爭を否認するものではないけれども、第二項に依つて其の場合の交戰權も否定せられて居ると言ふのであります、之に對し委員の一人は、國際聯合憲章第五十一條には、明かに自衞權を認めて居り、且つ日本が國際聯合に加入する場合を想像するならば、國際聯合憲章には、世界の平和を脅威する如き侵略の行はれる時には、安全保障理事會は其の兵力を以て被侵略國を防衞する義務を負ふのであるから、今後に於ける我が國の防衞は、國際聯合に參加することに依つて全うせられるのではないかとの質問がありました、政府は之に對して大體同見である旨の囘答を與へました、更に第九條に依つて我が國が戰爭の否認を宣言しても、他國が之に贊同しない限り、其の實效は保障されぬではないかとの質問に對して、政府は次の如き所見を明かに致しました、即ち第九條の規定は我が國が好戰國であるとの世界の疑惑を除く消極的效果と、國際聯合自身も理想として掲げて居る所の、戰爭は國際平和團體に對する犯罪であるとの精神を、我が國が率先して實現すると云ふ積極的效果があり、現在の我が國は未だ十分な發言權を持つて、此の後の理想を主張し得る段階には達して居ないけれども、必ずや何時の日にか世界の支持を受けるであらうと云ふ答辨でありました、委員會に於ては更に一歩を進めて、單に我が國が戰爭を否認すると云ふ一方的行爲のみを以ては、地球表面より戰爭を絶滅することが出來ない、今日成立して居る國際聯合でさへも、其の組織は戰勝國の平和維持に偏重した機構であつて、今尚ほ敵味方の觀念に支配されて居る状況であるから、我が國としては、更に進んで四海同胞の思想に依る普遍的國際聯合の建設に邁進すべきであるとの意見が表示せられ、此の點に關する政府の努力に付て注意を喚起したのでありました。


後日、法学の世界において「芦田修正」と言われる、9条の文言変更が話し合われたとされるのが、憲法改正委員会と小委員会だったが、その概要が説明されているものである。



同年9月3日 貴族院本会議

松本学

次に御伺したいことは、戰爭抛棄のことであります、戰爭抛棄と世界平和との關係のことに付て本會議の質疑應答の中で、疑を持つたのであります、本會議での質問に對しての御答辯は將來國際聯合に加入するのだと云ふことが一つと、それから幣原國務相からは戰爭は廢めるけれども、文化國家としての國内文化から強化して行く、又林伯爵の御質問に御答になつて、鬪爭の本能と云ふものもそれに依つて滿足させるやうにするのだ、斯う云ふやうな御答であつた、私は是だけではどうも滿足がいかない、國際聯合加入と云ふことになりますと、是は無論將來のことでありまして、是には自衞權と武備と云ふものが條件として加はるのではないかと思ひますが、此の點は私は詳しくは存じませぬので、其の加入すると云ふ時に當つて、全然自衞の武備を持たない國家として容易く入り得るかどうかと云ふことに疑問を持ちます、それから國内宣言として國内に向つて戰爭の抛棄をした、さうして文化國家として起つたのだから國民も其の積りでやれと云ふことだけでは、どうも何だか戰爭抛棄の大きな理想は十分でないと思ふ、苟くも戰爭抛棄と云ふやうな劃期的な世界を驚かすやうな宣言を爲さる、是は憲法の第九條と云ふ一條項でありますけれども、是は世界に向つての宣言だと思ふ、日本國の名譽に懸けての大宣言であります、此の大宣言を爲さる以上は國際聯合に加入して貰ふのだ位では濟まぬ、適當な時が來たならば國際聯合に入れて貰ふ前提にやつたと云ふことだけでは濟まぬと思ふ、又國内の文化力を強化すると云ふことだけでも片附かぬことである、世間では之を「アメリカ」なんかでも「ユートピア」と批評して居る、成る程さうでありませう、「アメリカ」人から見れば斯んなに慘敗をして立つことも出來ぬやうな國情になり、全部の武備は剥ぎ取られてしまつて居る、無防備な、武備なき日本國民が戰爭抛棄なんと云ふことは是は負惜しみを言つて居るのだ曳かれ者の小唄のやうなものだ、自分で實力を持つて居つて、其の實力を持つて居りながら戰爭を抛棄するぞと言ふのならば成る程と言ひませうけれども、實力のない四等國、五等國になつた最も弱い此の日本國家が斯う云ふ理想を言つた所で、誰も納得する者はなくして、「ユートピア」と言ふのは是は無理もありませぬ、私は恐らく是だけの世界に向つての大宣言を爲さつた以上は政府に於て必ずや世界平和への何かの具體案を持つておいでになるのだらうと思ふ、具體案なくして俺は戰爭を廢めたと言つたのでは世界の物嗤ひになる、私は繰返して申しますが、第九條は決して一日本國憲法の一條項ではありませぬ、世界に向つての大宣言であります、世界人類の幸福の爲に日本國民が本當の眞心から出た叫び聲であらうと思ふ、さうであるならば何か具體案を持つて居るに違ひない、文化國日本として世界人類、文化の爲に貢獻するに付て戰爭と云ふやうなものは廢める、そして斯くの如き具體案に依つて世界に呼び掛けるぞ、君方贊成するかせぬか、斯う云ふ何か腹案を持つて居るのだらうと私は思ふ、それがなくして唯空念佛のやうなことを仰しやつて居るのではないか、數年前確か昭和十三年だつたと思ひますが「ローズヴェルト」夫人「ミセス・ローズヴェルト」が、「ザ・トラブルド・ウァールド」と云ふ小さい「パンフレット」を著はしました、是は例の第二次世界大戰が將に始らむとして居るあの不安な世界情勢の中で此の著書を出したのでありますが、其の中い書いてありますことは、世界の平和と云ふものは人間性の根本的改革が起らなければいかぬのだ、

さうして「ブラザーフッドラヴ」兄弟愛と云ふものを基本に置いて世界人類が結んで、茲に初めて國際平和と云ふものが出來るのであつて、其の具體的な方法として紛爭等が起つた場合の解決策としては國際結合を強化しなければならぬと云ふやうな意味の小さい「パンフレット」であります、斯う書いて居られるのであります、斯う云ふやうな一つの考へ方が或は國際聯合の因を成して居るのではないか、即ち「ミスター・ローズヴェルト」があの當時頻りに國政の上に表はして居つたことが「ミセス・ローズヴェルト」の此の著書にも反映して居るやうに私は觀た、是も一つの案で、具體案のない嘲りを受けるよりも同じ「ユートピア」と片附けられるにしても、斯く我は信ずると云ふ具體案を持つて「ユートピア」と嗤はれるならば其の方が宜い、此の「ローズヴェルト」大人の説などは觀樣に依つては「ユートピア」夢かも知れない、併しながら私は夢を説くことが必要だと思ふ、殊に今日の此の世界情勢に處して、此の日本の難局を切り拔けて行かうとする時の政治家は夢を持たなければなりませぬ、其の日其の日の出來事を唯片附けて行くとかと云ふことだけでは政治家の本當の素質ではない、夢を説き、「ユートピア」を説き、哲學を持たなければいかぬのであります、斯んな諺があります、「スティツマン・イズ・ザ・ウォーキング・フィロソフイア」政治家は歩いて居る所の哲學者である、是が私は必要だと思ふ、歩いて居る、活動する哲學者である、さうして夢を説かなければならぬ、夢を考へることが今日最も要求せられたる政治家ではないでありませうか、今から何百年かの前に、丁度「オランダ」が「イギリス」に段々と蠶食されて、「イギリス」の勢力が強くなつて「オランダ」が段々下火になつて行つた時に、「オープン・シー」に於て「イギリス」の權力が非常に盛んになつて、「オランダ」が壓迫された、其の當時國際法學者の「グローチウス」が公海の自由と云ふことを唱へたのであります、其の當時は物笑になりました、實力を持つて居る「イギリス」なんかからも一笑に附せられて居るのであります

此の公海の自由と云ふ「ユートピア」が二百年ばかりの後には、是が國際公法の原理になつた、今日具體案を御持ちになりますならば、其の具體案を世界に御發表になり、世界に呼掛けて戴くならば、今は「ユートピア」と云ふかも知れないが何百年かの後には恐らく國際公法の原理になるかも知れませぬ、其の意味に於て何か具體案を御持ちになつて居るかどうか、之を總理大臣から承りたい、前に私が御尋したことは金森國務大臣から伺つて結構であります、もうあと一つ二つありますから、あとで質問を御許し願ひたいと思ひます


○國務大臣(吉田茂君) 

松本委員に御答へ致しますが、御質問の戰爭抛棄の條項に關して、私の説明が國際聯合に入る爲にあの條項を作つたと云ふやうな意味合のやうにも承りましたが、是は屡屡本會議其の他に於て申して居ります通り、所謂御話の、世界に先立つて戰爭を抛棄することに依つて平和日本の平和精神を徹底せしめる、世界に闡明せしめると云ふのに先づ趣意があるのでありまして、單に國際聯合に入る爲のみに此の條項を設けたのではない、是は松本委員に於ても無論御了承のことと思ひます、又此の條項を憲法に挿入した以上は、何か具體案を持つて居つての話であらうと云ふやうな御尋でありますが、政府と致しましては、現在の國際情勢及び將來の國際情勢を考へまして、斯かる戰爭抛棄の決意をすると云ふことが現在の國際情勢に合ひ、又將來國家として存置する爲にも宜しいと云ふ觀點から挿入致しましたので、偖今日に於て如何なる意味に、如何なる具體案を持つかと云ふ御尋に對しては、政府としては甚だ答辯に苦しむのであります、何となれば、政府と致しましては、政策と致しましては單に夢を見るばかりでなく、其の時其の時の状況に於て考を決めべきものであり、又今日の國際情勢及び將來の國際情勢は可なり複雜を極め、現に微妙を極めて居りますので、今日斯う云ふ案を持つて居る、斯う云ふ考を持つて居ると云ふことを、假にありました所が、發表することが宜いか惡いかと云ふ、國際關係もございますから、其の點に付ては説明を致し兼ねると御了承を願ひたいと思ひます、昨日松本委員から御尋があつたさうでありますが、それは植原、齋藤兩國務大臣から政治的方面、又は法理上乃至は倫理上方面から、各各國體に付ての表現に付て發表がありました、其の發表、表現は、説明の方法、表現の形等に於て色々異つては居りますが、其の間に政府と致しましては、從來金森國務大臣が説明し來つた所と結論に於ては相違ないと、斯う云ふ見解であるのであります、植原國務大臣は現行憲法第一條、第四條は主權の所在を定めて居るのではなく、統治權の所在を定めたものである、統治權の所在は改正案に依つて明瞭に變更されたさうでありますが是は金森國務大臣が繰返して述べて居らる、政體の變更、政體は變更されたと云ふ同一趣意と御承知を願ひたいと思ひます、又齋藤國務大臣が倫理上の意味に於ける國體は改正案に依つても變つて居ないと述べられたさうでありますが是は金森國務大臣の所謂國の根本特色と名付けられるもの、即ち國體と言はれるものであつて、兩大臣の意見、金森、齋藤兩大臣の意見に於ても相違した所はないと、斯う政府は考へるのであります、此の段御了承を願ひたい



これまでにも、ネトウヨ連中の如き人々が用いるのが、「ユートピア」だの「お花畑」だのという批判である。これは、制定前からよくありがちな批判的文言として、嘲る為に使い古された言い回しだということが、よく分かるだろう。


日本国民は、本当に進歩が止まってしまった、というより、不見識が過ぎるようになり、大きく後退しているようである。そして、かつては「有識階級」を構成していたであろう人々が、どんどん劣化してしまったということであろう。


つまりは、上がバカになった、ということであろうか。