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日本国憲法と第9条に関する論点整理〜8

これまで、憲法9条について理解するべく、拙ブログとしての定義及び条文解釈を書いてきた。今度は、実際の議論の対象となっている点について、どういう説明ができるかということを考えてみたい。


1 自衛権憲法前文(平和的生存権)或いは憲法13条

自衛権日本国憲法下においても認められるべき理由を述べる。

 1)自己保存権または自存権

所謂教科書的説明である。国際法上でも、そのような主張が用いられてきたものである。
国家は、基本的に自己保存権が認められるというのが自然法的発想であって、自衛権は自己保存権に包含されているものだから、いかなる国家でも認められるべき、ということであろう。
実際、国連憲章においても自衛権が認められており、日本が平和条約締結の際にも5条(c)で改めて確認されているものである。


(c) The Allied Powers for their part recognize that Japan as a sovereign nation possesses the inherent right of individual or collective self-defense referred to in Article 51 of the Charter of the United Nations and that Japan may voluntarily enter into collective security arrangements.

連合国としては、日本国が主権国として国際連合憲章第五十一条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利を有すること及び日本国が集団的安全保障取極を自発的に締結することができることを承認する。


従って、自衛権が存すること、現行憲法下でも保持が認められる理由としては、

・国家の自己保存権(自存権)としての自衛権(慣習国際法上も有)
国連憲章51条
日本国憲法制定時の帝国議会での制定趣旨(大臣答弁等)
サンフランシスコ平和条約5条(c)

が挙げられる(古い順)。
ただ、権利が放棄されず存在する、ということと、これを現実に使えるかどうかという話はまた別となる。使えるとしても、範囲や限度の問題もある。
例えば完全な内陸国で海軍を有しないなら、海戦に関する国際法の諸規則は適用されず、その国にも他国家と同様の権利があるのは明白だが、現実には行使できない。
集団的自衛権については、別の機会に書く)


 2)憲法前文の平和的生存権と13条の位置づけ

自衛権との関連において、時に乱暴な意見も見受けられたが、法学研究なり法学的議論なりに値するものは、安倍政権及び与党からも、昨年の法改正支持の法学関係者たちからさえも、見られていないようである。


ア)前文の法規範性

有力な説は、裁判規範性はないが法規範性は認められる、とするもの(論者・文献多数)である。最高裁判決文中にも、憲法前文から援用されたものがあり、有名なのは砂川事件判決である。近時においては、例えば田原睦夫最高裁判事による補足意見(H21年9月30日、H24年10月17日、いずれも最判大)でも憲法前文が取り入れられており、法規範性は認められるのが妥当であると考える。


イ)「平和的生存権」を肯定する見解

例えば、政府答弁書中でも述べられていることは明らかである。拙ブログでも取り上げている。

15年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/feda7c19ca58f9dbaea3d61e47d8298b

文中、平成15年7月15日の政府答弁書を引用した(これは当然に閣議決定を経ている)ものである。


他には、平成20年4月17日の名古屋高裁判決がある。イラク派遣が違憲であると判断された判決であり、当時記事に書いていた。

08年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/59e81c56baa9f00d9d3cc4367332ccb0

本判決文中では、次のように判示された。


平和的生存権は,現代において憲法の保障する基本的人権が平和の基盤なしには存立し得ないことからして,全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的権利であるということができ,単に憲法の基本的精神や理念を表明したに留まるものではない

憲法9条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し,さらに,人格権を規定する憲法13条をはじめ,憲法第3章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば,平和的生存権は,憲法上の法的な権利として認められるべきである

平和的生存権は,局面に応じて自由権的,社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ,裁判所に対してその保護・救済を求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができる

憲法9条に違反する国の行為,すなわち戦争の遂行,武力の行使等や,戦争の準備行為等によって,個人の生命,自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ,あるいは,現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるような場合,また,憲法9条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には,平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして,裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求めることができる場合があると解することができ,その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある


平和的生存権は、現代において、平和の基盤がなければ基本的人権が存立しえない、ということを考慮した上で、憲法上認められるべき権利としている(これぞまさしく、存立の危機、である)。

シリアのような戦乱の状況に陥ったことを想定してみれば、いかに基本的人権を守ろうとしても、困難であることが分かるだろう。いつでも爆弾が降ってきて、一般市民であろうと無差別に殺害されてしまう状況下では、基本的人権など無視されているに等しい。
そして、そのような権利侵害から逃れる為に、諸外国へ難民として受け入れを求めるというのは、まさしく「平和的生存権」が侵害された状態だからこそ、基本的人権を擁護すべく安全な環境下へ保護を求める、という意味合いであろう。

また、平和の基盤が侵されるような事態においては、裁判所が救済すべき具体的権利性が認められる、としている(故に、訴訟の対象となり得る、と)。


以上から、

憲法前文の法規範性を肯定
・政府見解に採用されていること
名古屋高裁判決

また法学上でも肯定的論説があることなどから、「平和的生存権」について法的権利としてこれを認めるべき、というのが拙ブログの立場である。


 ウ)憲法13条について

前記政府答弁書でも、同名古屋高裁判決でも述べられており、9条や平和的生存権に関連している条項であると考えられる。

では、13条の意味合いとは何か?単に理念的な条文なのか?
先の平和的生存権が権利性を有する、とするのであれば、13条はこれを裁判規範性のあるものとして具体化したもの、と見ることもできよう。が、諸説ある部分なので、決定的な解釈というのは確立されていない。


「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」は、国政上「最大の尊重」を必要とする、とされるのであるから、平和的生存権法益を保護すべき義務を国が負うものである、というのが、拙ブログでの見解である。

一般に、国家は自国民だけに留まらず、自領域内の外国人の安全と保護を確保する義務を負うものである。外交上の決まりとして、そうなっている。
すなわち、日本国憲法13条に言う国民の権利を最大限尊重するべく、政策が求められるのであり、「平和と安全」の確保が国家に対する国民(外国人にとっても)の要請である。


生命、自由、幸福追求の権利とは、平和的生存権と重なる権利であり、これを実現するべく政策としての「自衛力」を肯定する根拠と見ることは可能である。
例えば、どこの国の人間か分からない荒くれ暴漢集団が襲ってきたら、国民としてはこれを排除し安全にして欲しい、国民を守って欲しいと願うであろう、ということである。そのような要請できる権利が、13条にはあるのではないか。

発動されるのが、警察力か自衛力かは区別できないが、少なくとも、国民の平和と安全を守るというのは、保護法益として存在し、その根拠とは平和的生存権であり憲法13条にいう権利ではないか。
従って、平和的生存権や13条の権利が、日本の自衛権があることの論拠となるということではなく、「自衛力」の保持を肯定するのではないか、ということである。


自衛力と自衛権は別の文言かつ概念であり、自衛権国際法から導き出される国家の権利である。日本が保有する(戦力ではない)自衛力は、あくまで国内法に基盤があるforceであり、その根底にあるのは憲法前文や13条である、と見るべき。これを実現する為の「政策」が、自衛力の保持、だからである。国民を保護するべき義務を13条によって負うから、だ。あくまで「国家の義務」なのである。

自衛権は原則として、政策ではない。国民から授権されたものではないし、行使可能な「国家の権利」として認識される。