怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

『インターステラー』を観た

DVDで観てみました。

ちょっと難解な長編。音楽の使い方とか、多分、監督の好みというのが反映されているのだと思うが、『インセプション』に似た感じ。特にラストの処理が雰囲気が近いかもな、と。


多分、作り手は敢えて「意識的に」、『2001年宇宙の旅』との対比を見せたものと思う。
SF映画の中で金字塔である同作を超える、2010年から見た(それとももうちょっと後の)新たな『2001年宇宙の旅』を生もうと思ったんだろうな、と。


あの時代にはこうで、現代版だとこうだ、というようなのが随所に埋め込まれているかのよう。


特に象徴的だったのが、人工知能
HALLと対照的に、有能かつ人間よりも信頼できるのが、TARSなどのキカイ。
人間は「邪悪」サイドに堕ちてゆくが、人工知能は忠実・正確に人類の味方であり続ける。
しかもアニメを含めた未来ものの映画では、進化形態がより複雑化・人間近似化の発想なのに、本作では敢えて逆の単純形態かつ旧式表現形態の画面をつけたものとなっている。これぞまさしく「未来への挑戦状」だ。

純化は、過酷環境下でも「頑丈、壊れない、整備が問題にならない、多機能、信頼性」という点で有利だろうから、ということかな、と。
何という頼もしい相棒か!
難しい指令もこなせるし、何より「孤独」を解消してくれる無二の存在なのだ。


父と娘の愛、それが、2つの家族を通じて描かれる。
博士の父娘は、父親が解決不可能という答えを知っており、娘を地球外=宇宙へ「逃がす」。
宇宙飛行士の父は家族を救わんが為に行ったのだが、死んだ博士から事実を聞かされたマーフは父への懐疑を募らせる。


家の本棚がどうして、というのが理解され難いのかもしれないが、そのずっと以前に言ってた通りに「愛が観測可能なら、何らかの意味があり、powerとして存在するのではないか」という娘博士の見解を表現したものと思う。


みんなが幽霊の仕業?とか驚く現象の裏側には、ひょっとすると「未知の現象」と言うだけに過ぎず、本当は理論的裏付けが存在しているのではないか、そういう全ての出来事が「宇宙」では「因果」?か「論理」?か、そういう法則性によって繋がっているんじゃないか、ということである。現実世界で生きる僕らには、その真の理論や法則が「まだ発見・理解されていない」だけなんじゃないのかな、と。


だから、「愛」や「家族の記憶の中に生きる」ということの「意味・科学的論理」などが、現在の自分には理解できない・知らないだけで、本当に存在していても不思議ではないんじゃないか、という物語なんだろうなと。そのpowerこそが、未来を切り開く力となるんだ、と。

そして、それは神頼みのような「特別の、超越した存在」ではないとしても、起こり得るんじゃないか、実は「力を信じ続ける・愛を疑わない」自分ないし家族という存在があれば、できるのではないか、ということです。


父が奇跡的に生還を果たしたのは、運もあるし、別の存在の思し召しかもしれないが、マーフの兄が言った「起こるべくして起こる」は信じ続ける気持ち、疑いのない思い、それこそ「愛」という計測不能の力で達成されるものなのではないか、ということである。そうでも思わないと、現実世界に起こる信じられないような奇跡は、説明不可能だから、だ。神(のような超越的存在)を肯定するか、未だ理論が構築されず観測方法の分かってない「愛」の力を肯定するかは、実際の所、大差ないのだよ。科学の否定でもなく、唯一の答えが「まだ正解を知らないだけ」というものなのだから。


いずれを否定したとしても、既知の科学では説明不可能なものなのだ。

本作が驚異と感嘆の言葉を受けるのは、現代ではなく、30年後か50年後なのかもしれない。その時、この映画を見た人々が「どうやって、こんな過去の時代に、この映画を作ったのだろう?」と不思議に思うかもしれない。

できれば、私も20年後とか30年後(生きていれば、だが)に再見してみたいなと思った。どんな感想を抱くだろうか。
そうか、あの父親と同じく、「映画を通じて」過去の自分に会うことができるんだね。映画を見たら、「ああ、あの時観たな、当時の自分がこうだったな」とか、記憶が蘇るもんね。これも「愛の力」の一部なのかもしれない。映画ラブ。