怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

反知性主義、あるいは権威や専門家への懐疑と信頼喪失

ちょっと目に止まったので。
http://b.hatena.ne.jp/entry/cruel.hatenablog.com/entry/2015/08/20/185544


続きがあるようで、どんな結末が用意されているのか楽しみだ。
さて、「反知性主義」なるテクニカルターム(笑)が昨今の流行り?か何からしい。今年に入って、色々と取り上げられていたようなので。



内田樹による『日本の反知性主義
http://blog.tatsuru.com/2015/02/20_0907.php


その書評
http://blogos.com/article/119232/

http://webronza.asahi.com/culture/articles/2015061000013.html


内田本は読んでないから何とも言えないが、少なくともアメリカでの「反知性主義」と日本のそうした”傾向”というようなものは、恐らく別なものであり、歴史的社会的背景も違っている(特に宗教的にプロテンスタンティズムからは程遠い)から、日本と並列的な論評というのは困難(それとも前提として誤り?なのかな)なのではなかろうか。すなわち、あくまで「日本での」反知性主義であって、アメリカの反知性主義は当てはまらないのではなかろうか、と。単に、知性なり知識人なりの批判や評価には使えるというものなのでは。


以前に―といっても10年前だが―拙ブログでも、この話題を書いたことがある。

05年7月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/11730e9d160bbc556c15fbe9bfc7f883


当時はブログを始めて間もない頃であり、ウブなぼくは、ネット社会の未来に若干の希望を見出していたのだと思う。そして10年後の今、世界は何かが変わったのだろうか?


普段よく目にする、知識人らしき人々というのは、その多くが役立たずの有害言説を拡散するだけの人々なのだ、ということを再確認できただけだった。日本のエリート・知識階層の堕落とも言うべき、著しいレベル低下や劣化を感じた。かつては、まだ信頼に値する知識階層の人々が存在していたはずなのだが、基本的原理原則を失い、利益に迎合的な人間が社会への影響度を増すにつれ、大衆の眼前からは消え去ってしまった。
まだ「まともな」or「マシ」な知識人たちの言説は世間から遠ざけられ、「結論ありき」的なロクでもないことしか言わない人間の出鱈目言説が重用され、社会に拡散するようになってしまった。


そして、最悪なことに、知識階層を自認するような人々に限って、出鱈目を言っているということに無自覚なのであり、自己の論理的正しさを盲信しているという病的状態に永遠に気付けないのである。従って、反省がないのだ。反省がないから、進歩もないのだ。


昨年にも、そうしたことを指摘したことがある。

14年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6c0aaf17dd49c566ade7f39a6044a797


記事中で、ぼく自身が反知性主義というか反専門家・反権威的(或いはヤンキー的?)傾向を持つだろうと書いたが、生来の下賤かつガサツな性分といいますか、昭和の頑固おやじ・信念重視・水戸黄門的世界観の情感派な人間らしいので、しょうがない(笑、自分では長年そうしたことに全く自覚がなかったんだが)。本質において、ヤンキーなんだな。話が逸れた。


で、知識だか知性だか知らないが、そういうものを過信しているのか己の全能感に蝕まれているのか、疑問を抱かない知識人気取りの連中というのがいるわけだ。ぼくが「どうしてかな?」と素朴な疑問がある時、それは自分が知らないだけということがたくさんあるわけだが、そうではあっても兎に角疑問に思うんだよ。

けれども、知識人気取りの連中はヘタに知識があるせいなのか、「どうしてかな?」と疑問に思わないってことさ。まるで最初から答えを知っているかのように振る舞い、自信満々でこれが正解だと言い募るんだが、それが大間違いだったりする。よく知らない人以上に、大嘘を「これが正解だ」と喧伝する人の方が圧倒的に有害なのだ。


中には、権威を政治的に利用しているだけに過ぎないものもある。その選り分けが難しいことは分かるが、知識階層の人間ならば「正解」を探せるはずだし、社会に知られてないなら、専門家として正解を言うべきなのだ。経済学や法学ばかりではない、裁判官とか弁護士とか公認会計士といった人々においてですら、「信頼に値しない」ことは少なくないのだよ。


参考>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/0bc557db31408f464947323604003694

(再掲)

誰も正そうとしない、できない、そうして、狂ったような方向にみんなして向かってゆく、そういう愚か者どもにだけ権力が存在する、という狂気の国なのである。
しかも偉いヤツらのほんの少数が狂っているんじゃない。
多数が、同じように、隠蔽に加担し続ける、そういう体質が隅々まで浸透しているのだ、ということさ。福島原発事故は、そうした狂気の体質の一部が露見したに過ぎない。
権威の側にこそ、ろくでもない連中が蔓延っており、そいつらが牛耳るという仕組みが、まさしく完成されている、ということさ。権力構造は打破できていない、ということだ。
狂気の者どもは、これを称して「政治」と呼ぶ。
これは政治なんだよ。政治とは、権力の力学である。クズどもに権力を奪われている限り、常にクズが勝利するようにできている、これを「政治」と言うのだよ。力学を支配するのは、お仲間の数と役割だ。クズが互いを支え合うから、クズをいつまで経っても排除できない。

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日本には、知識階層とか知性とか、そういうものは、絶滅危惧種のようなものであり、存在しないに等しい。大衆の目から隠されているとか、社会に伝播力・影響力がないなら、存在しないも同然なのだから。エリートの喪失、だ。エリートの役割を担うべき人たちが、機能してないのだから。そういうのは、ぼくのような野卑な人間のすることじゃない。そのような階層の人々のなすべきことだ。


聞こえない声は、何も言ってないのと同じってことさ。