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『シン・ゴジラ』私的鑑賞概説〜2

ゴジラが鎌倉から上陸後、多摩川でこれを阻止する作戦―「タバ作戦」が決行されたわけだが、これは福島原発でいえば12日の「1号機のベント」作戦(+電源車到着後の電源繋ぎ込み)だろう。


総理の「命令」があり実行したので、同じである。『シン・ゴジラ』においても作戦失敗となったように、1号機は水素爆発してしまい「1号機のベント」作戦は失敗に終わったのだ。作業員(自衛隊員)たちの現地から退避を余儀なくされたのも同じ。


ゴジラ自衛隊を退け、米軍のB2を落とし、街を破壊したわけだが、多分あれが1号機水素爆発ということであろう。
12日の爆発後、3号機爆発の15日まで少し時間が空いていたのと、ゴジラが一旦活動停止になりしばし小康状態になったのは似ている。
ゴジラの進撃に伴い、電力が切れて街がブラックアウトしてくゆシーンは、輪番(計画)停電における都内の夜景と同じだった。


ヤシオリ作戦」の実行過程は、2号機・3号機の冷却を継続し、1号機と4号機の使用済み核燃料プールを含めて冷却をするという過程そのものであったろう。

1号機爆発後の高放射線量地域において、作戦遂行に参加するというのは、ゴジラの攻撃による汚染そのもの、ということだ。ホイールローダーで瓦礫排除+ポンプ車で冷却というのも、原発事故の時と同じ。


ゴジラに凝固液投入をするも、第一小隊が全滅したわけだが、あれは3号機爆発の経過ということだろう。福島原発では13日以降であっても少しは冷却を実行できていた(1号機には海水注入が、2・3号機はRCICやHPCIが稼働していた)が、「再びゴジラが暴れ出す」=3号機爆発という状況になった。放射性物質は降り注いだが、ここで諦めるわけにはいかない、ということで、そのまま作業を続行した(現実には、自衛隊のチヌークが水をかけに行き、現地に残った作業員たちと共に陸自やレスキュー隊や機動隊にも放水決死隊の出動が命ぜられた)。


福島原発のとりあえずの冷却体制が実現できたということで収束をみたのと、ゴジラの活動停止は等しく描かれたわけである。
実施されたゴジラを倒すそれぞれの方法は、現時点の人類が可能なことの集大成だった。「現実対虚構」の意味とは、そういう点にもあるだろう。


また、映画中には、字幕で人物名や装備名などがいちいち表示されるわけだが、これは「全てに名がある」ということを示している。


先に挙げた12年7月の記事で書いたが、「名もなき英雄たち」は、現実にはぞれぞれに名があるのは当たり前で、単に国民は誰も彼らのことを殆ど知ることがない、というだけである。東電の吉田所長とか東京都のレスキュー隊長は、記者会見等で名前も存在も知られたが、その他大勢の方々については知られることがなかったわけである。


けれども、福島原発事故に関わった全ての人々には、名前や所属や何らかの属性があった、普通の人々のはずなんだ。一人ひとりの名は、確かにあるんだということ。


事故を収束に向かわせたのは、現場力であり大勢の技術者たちの技術力なんだ、と。

12年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/b098d5bb95aae35232fccada6363e61d


また、任務を遂行したのは、死をも覚悟した人々であり、気合いなくしては日本を救うことなどできなかったであろう、と。

14年6月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/6c0aaf17dd49c566ade7f39a6044a797




シン・ゴジラ』が意識的に「特定の人々」に向けて作られたであろうと思うのは、いわゆる「オタク」向けという印象を受けるからだ。これは、悪い意味ではなく、むしろ敬意を払っているとか、感謝に値するということである。


「オタク」という名称が定着するのは、「タク八郎」のような人が登場するようになって以降かもしれないが(個人の感想です)、存在自体はずっと以前からあったわけである(そして、その存在はどちらかと言えば、薄気味悪く気持悪い変人、的な捉え方だった)。

特に、特撮マニアというジャンルはアニメ時代が来るより古くからあり、ゴジラシリーズのマニア(今ではオタというかもしれない)とか、仮面ライダーシリーズの人とか、ウルトラマン系の人とか、割と細かく区分されていたのではないかな。少年とかの子供なら分かるが、いい歳をした大の大人が「ウルトラマンかよ」的なネガティブな見方が一般的だったように思う。


ビデオのない時代で、再上映とかくらいしか情報入手手段がなく、それでも古い雑誌等文献(笑、と呼ぶのが相応しいか別として)を漁ったり、互いの知識を交換したりして、更なる専門知識を深めるとか、マニア同士しか通じない話が沢山あったものと思う。誰よりも何でも知っている人は、「神」として仲間内で崇められていたことだろう。
(そういうのは、多分映画でも同じで、寅さんシリーズのマニアとかは普通の人が全然知らないことでも色々と知っている、みたいなものです)


オタクが社会で認知されるより以前から存在してきたマニア諸君、そういう人々への敬意が、『シン・ゴジラ』には盛り込まれているということだ。

分野では、
・怪獣ゴジラオタク
・鉄道オタク
・アニメオタク
エヴァンゲリヲンオタク
・ミリタリーオタク
といった具合である。


鉄オタは、ゴジラにやられてしまう路線・電車とか、ヤシオリ作戦での電車攻撃の大活躍ぶりとか、狂喜乱舞だったのでは?
自衛隊の装備とか攻撃とかも、ミリオタの心を刺戟するものだったのでは。


それに、音楽の使い方が大変上手くできており、エヴァンゲリヲンを彷彿とさせるシーンもそれなりに入れていた(例えば、複合機をズラリと並べる、ラップトップや無線機を並べるといった、斉一性を示すシーン)。ヤシマ作戦になぞらえたかのような「ヤシオリ作戦」。くすぐってくれるじゃないか、と。

初代ゴジラへのリスペクトは、音楽に最大限に表現されていたように思う。お約束の「銀座和光ビルを破壊」もそうか。
何より、映像・表現したいシーンと素晴らしいマッチング(元ネタ映像との対比)で、オタク心に響いたのではなかろうかと。


巨神兵の「なぎ払え!」』(ゴジラ放射線流攻撃)を見せたのも、オタクへの敬意であろう。80年代のアニメ復活を支えたナウシカ、数年前の庵野監督の特撮「巨神兵」などを見たことがあれば、ああそうだなって思うだろうから。



ネットが発達して、情報や知識入手は昔に比べて簡単になったし、DVDもあるから作品を何度も観返してみることもできるようになったし、作品を理解するのは便利・容易になったと思う。


昔のマニアの人達は、もの凄い努力、苦労、労力を払っていたのだな、と思う。だからこそ、その集中力は、凄かったんだなと思う。上映1回で、かなりの情報収集をしなけりゃならないし、記憶せねばならんので。
そうか、集中し過ぎて興奮気味なので、封切り後の映画館では、鼻息とかが「くふー、ふしゅるー」ってなってて、余計に気味悪い人物にしか見えないものね。独りでブツブツと小声で何か言ってたりとか。
専門分野(自分の好き・得意なマニア領域)について質問されたりすると興奮してしまうので、喋る前の呼吸が深くて荒く、早口になりがち(しかも嬉しさのあまり何処となく勝ち誇った感じ)なので、一層気持ち悪く見えてしまうのかも。


話が逸れたが、昔の「不遇のオタク」時代からすれば、今は随分とオタクへの抵抗感は薄れたし、ネガティブな評価も減ったし、女子にさえ浸透するようになったし、時代は変わったなと思う。
私は、ずっとオタクとは無関係であり、何かのマニアでもなかったので、そういう世界はあまり知りませんが、一部に垣間見ることはあったような気がする。


シン・ゴジラ』は、過去から連綿と続いてきたオタクたちを肯定する作品として、生み出されたのかもしれない。


それと、ゴジラが破壊するのは東京なのだが、高放射線量地域とされたのが、日本の中枢たるこれぞニッポンという、千代田区界隈(映画中だと国会議事堂、霞が関、銀座、赤坂など)で、そこが焼き尽くされたというのは権威の象徴をぶちのめす描写=神罰というか地獄の業火、みたいなものということです。
政官財の権威中枢に対する異議の暗喩、とでもみるのでしょうか。


ちょっと難点というか、気になった点も書いておこう。
凝固剤の投与だが、あれはまるでカラ井戸にジャアジャアと流し込むように入れるだけで、それが血中(体液中)に吸収されるであろうという決め付けには疑問の余地がある。経口投与というのにどれくらい効果があるか、ということである。

恐らく「核兵器や海洋投棄された放射性物質」の残骸等を「食べた」と思しき形跡から、「経口摂取は可能」という判断だったものと思うが、「何かを食った」というのと「液体をゴクゴク飲む」というのは、違いがあると思う。

ゴジラ転倒後、口に流し込んだとて、それが人間で言う「嚥下」されるかどうかは、判断が難しいのでは?
もっと問題になるのは、第一小隊による投与後に動きが鈍ってから、もっと「凝固させよう」ということなら、嚥下行為そのものが停止されるのでは、と不安に思うのでは?

けれども、口にジャンジャン流し込んだら全量吸収されてしまい、それが体液中に溶け込んでゴジラ冷温停止となる、というのは、こちらにとって都合のよい解釈ではある。人間だって、気絶してて倒れている人に、口から水でも輸液でも流し込んだとしても、零れるばかりで殆ど入っていかないよね。粘膜からの吸収があるとて、流し込み速度と量からすれば比べ物にはならない。もっと違う投与経路か効果発現を考えるべきだったが、福島原発事故での「ポンプ車と注水」という舞台装置(制約・条件)の必要性からこうなった、という事情も分からないではない。



本作は、ゴジラ映画という「壮大な虚構」なのだけれども、まるで本物のように描き切るという挑戦(実験的?)があったわけだ。
ゴジラ退治の手段が「現実(人間の力)」という以外にも、『シン・ゴジラ』という映画(=虚構)と現実世界の本物との比較(リアリティ追求の対決)という面もあるかもしれない。


海外の人からすると、この映画のよい所は、日本人的な面を知るには良い教材になり得る、ということかもしれない。予備知識なしで、この映画を楽しめるかというと外国人には結構難しいかも。ああ、日本人でも子供とかはちょっと良く分からない部分はあっても、気にしなければ普通の娯楽映画として楽しめないわけではないか。


観る人によって、様々な解釈が出てくるというのが本作の魅力だろう。
もっと繰り返し鑑賞してみると、見落としてたり気付いてない部分とか、まだまだ出てくると思うので、『シン・ゴジラ』オタクには話の種が尽きない映画なんだろう。


種々の解説なり評価論が出されるなら、そのこと自体に大きな価値があるという素晴らしい映画なのだ。