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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

経済学理論バカへの挑戦状〜その4

ここで、経済主体の大きさというのを、小さい範囲で考えることにする。個人レベル、ということである。これが大きな塊となって、国単位になっても同じ理屈にはなると思う。

同一通貨であるなら、貿易取引は物々交換とあまり違いは生じない。
また例で考えてみよう。
甲と乙の経済主体がいる。甲は米だけ作る。乙は漁師で魚介類を獲る。産出は両者同じで、100である。もしも、貿易(交換)が行われないと、甲は米だけしか食べられないし、乙は魚介類だけしか食べられない。が、ここに貿易が発生するとしよう。
甲から、米を20だけ乙に売り、乙から甲へは魚介類を同じく20だけ売る。同量の輸出入が行われ、貿易収支は均衡している。
甲は、米だけ食べていたのが、
第一段階:魚介類をおかずにできた→ウマー(効用アップ)
第二段階:米と刺身が出会って、寿司を開発→更にウマー(新発明)
というようなことになるわけだ。

乙では、魚介類だけ食べていたが、
第一段階:メシと一緒に食べられる→ウマー
第二段階:イカとメシが出会って、イカ飯開発→更にウマー
となる、と。

貿易というのは、こうして「何かと何かが出会う」というような作用があって、偶然であろうと何だろうと新たな何がが生み出される、という機会を与えてくれるものなのだ。何がうまくいくのか、何が好まれるのかは、やってみなければ分からない、というものである。

ここで、甲と乙は、共に競合しない、ということが重要だ。甲は魚が獲れないし、乙は米が作れない。貿易によって、どちらも仕事を失うわけではない、ということなのである。非競合同士であると、交換が行われて、うまく行く。互いの領域(米作りと漁業)を侵食しないからである。

また、甲と乙がそれぞれ同じ分だけ貿易している、というのも大事なことである。もしも、甲の慢性的貿易赤字、乙の輸出超過が継続していると、どうなるであろうか?
例えば、甲は米100を全部食べてしまい、乙からは魚を20輸入する。乙は自分で消費するのを魚介類80だけに我慢して、20は貯蓄に回し、この余った部分を甲に売却する、という意味になるわけである。この時、同一通貨であると、甲はどうやって乙から魚介類を買い取る資金を出すのであろうか?普通は、米を売ったお金を用意して魚を買う。それは、米と魚の等価交換ということを意味した。前述した例ということだ。
だが、貿易赤字というのは、産出した分を越えて支出が行われるので、甲は乙に何かを渡さねばならない。とりあえず、米と交換できる「米券」というのを発行し、「米券20」を乙に渡して、引き換えに魚20を買う、ということにする。
そうすると、甲では毎期20の貿易赤字があるなら、毎期米券20の発行が行われ、乙には米券が蓄積されてゆく。米の貯蓄がないものとするなら、甲は米100を消費した上に魚20を食べてしまう、ということなのだ。乙に払われる米券は、20×期数分だけ溜まってゆく。これは、甲への貸付と同じ意味合いであり、その引き出しを行うと甲は払えないかもしれない(笑)。甲はうまいことを言って、「米券には利息がつくよ」とか乙に言いくるめて、米券という実体のないものを渡しているのかもしれない。だって、現実に米券を「米に換えてくれ」と持っていったら、甲は死んでしまう(破綻する)かもしれないんだもの。

なので、貿易赤字は永続できないし、長く続くと、支払い不能になる可能性が高まる、ということである。
甲の稼ぎが増えているように見える場合もあるが、米の産出が100、102、104、…みたいに成長していっている場合であっても、乙から「軍手を借りる」「鍬を借りる」「堆肥を借りる」みたいに、投資を受けることによって成立するのだ。結局は、それを全部清算してみると、乙からの「貸付」そのものが形を変えただけに過ぎない、ということである。

極端に言えば、落語なんかで出てくる、「明日の給金で払うから、今、金をおくれ」「明日の分はどうするの?→明後日の給金で払えばいい」みたいな論法と一緒なのである。未来の「まだ入ってきていない稼ぎ」で払おうとする、というのが本質なのである。
永続できないなら、どうなるのだろう?
過去の米券分を返済に回してもらう、ということになる。産出100のうち、甲が食べるのは80(国内消費を100から80へと辛抱するということ)、乙への輸出が18、米券返済分に2、みたいなことになる。乙からの輸入は魚18だけとなり、乙は、米18+米券返済2の合計20を魚18の輸出で受け取ることができる、ということである。これを10期続けて、ようやく「米券20」1回分の返済が終わる、ということだ。見掛け上、甲の支払う米20に対して魚18との交換になるので、乙の魚の価値が相対的に増加したようなことになるわけである。
これこそが、貿易不均衡の調節作用、ということであると思うわけである。


貿易赤字が継続すれば、次第に輸入分の価格が上昇し、いずれ買えなくなる、という所に行き着く、ということである。それか、「返済=輸出財を増やす」よりない、とうことになる。輸出に回す、ということは、すなわち「自分で消費したいのを我慢して、貯蓄に回す」という行為に他ならない、この貯蓄部分を貿易として国外に出すのだ。


貿易赤字の話は、とりあえず終わろう。
次は、失業や転職コストのことだ。


究極的には、個人の能力を均質化できるのか、ということが問題意識である。
経済主体をとことん分割して、最も小さい単位で考えるなら、やはり個人にまで行くわけである。個人は均等じゃない、能力は完全同一にはできない、という当たり前の主張に辿り着くのである。
比較優位の説明なんかで、簡単に別な仕事の分野に移行させるわけだが、そのことが実際上はかなり難しいということを、無視しているのだ。

例えば、立派な肩書きの経済学の大学教授なんかがいるとして、この人を全く無関係な仕事―マクドナルドやミスタードーナツの店員とか、倉庫の運搬係とか―に割り当てると、クソの役にも立たない、ということは、容易に観察できるはずである。
ハンバーガー屋で、新人として経済学教授だった人間をバイトで雇うとして、まず仕事がまるでできない。周囲のスタッフにもとんでもなく迷惑をかける。いちいち教え込まなければならないが、役立たずの元大学教授なんて、プライドばかりは高いが、手はノロく覚えも悪い。そのくせ、口だけは達者ときてる。そういう人間であろうとも、優しく怒りをこらえて、教えなければならない。仕事がある程度できるようになるまで、いない方がマシ、という状況が続く。元経済学教授のバイトは、マイナスの仕事・人材、ということである。

これこそが、転職コストにカウントされなければならないと思うわけだ。それに、当人にとっても、これまでやってきた経済学教授の仕事に関する投資等は、無駄になる。当人の産出量としても、大幅に減るであろう。サービス貿易自由化で仕事を失うと、このような失業が発生することは止むを得ないということなのだが、その結果生じる失業や転職に関するコストがどの程度なのか、それが測定できるのか、ということだ。


もしも、超万能人間がいて、どの仕事に就いても、均等に誰と比較しても同じく仕事ができる、という、スーパー人材ならば、全く心配ないだろう。経済学が想定している労働力というのは、そうしたスーパー人材以外は存在していないであろう。
現実世界では、それは無理だ。
得手不得手、向き不向き、みたいなものが残るからだ。各個人で、能力の発揮できる仕事や場面というのは、異なるからだ。優れたプログラマーだって、比較優位論の適用で失業の憂き目に遭ったからとて、トラック運送会社の社員とかになっても以前と同じく産出が得られるかといえば、そうはならないからだ。力仕事は、能力の高い人と低い人では、歴然と差が出る。職種によらず、大抵の場合、ベテランと素人同然の新人では、稼ぎが違うというのとほぼ同じ。経済学では、そういう違うは考慮されない。全部同じ仕事ができることになっているわけである。そんな前提は、意味がない。単に、ウソというだけである。考え方として学ぶ為の、方便に過ぎない。

経済主体を全て均質化できないのは、個人レベルではなく、国レベルでも同じだ。地理的条件なんかは別だから。地中に埋まっているものだって、均等化できない。原油がある国と、ない国、金の産出できる国とできない国、そういうのは、厳然と違いが存在している、ということである。個人の個性があるのと変わらず、国や地域がそれぞれ異なっている、というのは、回避できない事実なのだ。

そういう違いを完全に無視して、経済学理論を無差別に適用しようとしても、前提が崩れているなら、結果が同一ということにはならないのではないか、ということである。似たような結果(経済学理論で説明できる範囲)である場合と、必ずしもそうはならない部分とがある、ということを認識するべきである。


経済学理論バカの恐るべき妄信は、こうした個々の違いは「存在してない」と心底信じているのか、気付くだけの知能が備わっていないのか、鵜呑みの性質で権威を無条件に信じ込む(200年余の知の遺産w)のか、よく分からないが、一般則というか、絶対的原理原則であるかのように思っていることが危険なのである。
彼らに共通するのは、決して省みるということがない、という傾向である。異なる意見に耳を貸そうということもないのだ。「それは素人だから、そういうことを言うんだ」と、決して自分たちの領域(経済学理論だな)を疑うとか考えてみるということが「ない」のだ。しかも、自分たちの使っている理屈では、うまく説明ができないのに、である。
本当に、いっぺん病院で診てもらった方がいいのではないか、としか、経済学素人には思えないわけだが。

恐るべき刷り込みなのだ。
カルト教団の信者なみ、と言ってもいい。傍から見ると、あり得ないほどの圧倒的自信と信奉姿勢と、排他的物言いである。当方が経済学に関して無知なだけかもしれないが、経済学という学問や理論がそんなに正確だとは、到底思えない。そんなにまで信ずるに値する論理であるとも思わない。
それなのに、だ。
経済学理論を無闇に崇拝する連中は、後を絶たない。そのことが、本当に不思議でしょうがない。
経済学理論には、そういう魔力でもあるのか?
人を狂わせる、特別な何かがあるのだろうか?(笑)