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政治的成熟度は「脱橋下」で計るべし

維新の会の全国版を旗揚げして、マスコミを賑わせている橋下市長。
後ろ盾を得て、本格的に攻略戦を考えているようだ。マスコミは今後も橋下維新を支援するだろう。


まさに外患誘致に匹敵するわけだが、橋下一派が唱えるTPP参加という外交の目玉がそれを示しているだろう。


橋下さんは、「希代のトリックスター」として、政治世界に君臨しようとしている。
大衆煽動が成功すれば、維新の会が政治的成功を収めることになるだろう。大衆がまんまと橋下の罠に引っ掛かってしまうと、そうなってしまうということだ。


ただ、霞が関の操り人形たる野田民主か、旧弊の巻き戻しが酷い上に増税原発路線の自民党か、ハッタリ維新か、という中から選ぼうとする人々はそれなりに出てしまうことは防げないので、いかに有権者たる国民が賢くなれるか、ということにかかっているわけである。


「生活」支持以外には選択肢がないことは明白なのだが、そのことが多くの人々に果たして理解されるだろうか、という心配があるわけだ。


大衆がまんまと橋下さんの策に引っ掛かるのも、残念ではある。
今こそ、「脱橋下」の意味を考えてもらいたいものだ。


以前にも書いたが、橋下さん個人の好き嫌いとは、話が別だ。彼がタブーをものともせず、自分の言葉で意見を発していた時には、計算が入っていなかった分好感が持てたが、もうそうではなくなってしまった。橋下得意の「言いくるめ」「腹に一物」や「よいしょ」という、生来の部分へと政治を引き込むことになった。彼の本性は、ずるく生きる、泳ぎきる、ということである。その性分がいかんなく発揮されてきている。同時に、正直さが次第に失われていった。政治の世界に生きるというのは、そういうことなのだから仕方のないことなのであるが。


橋下さんは、自らの最も輝きを放っていた部分を放棄したということだ。


橋下維新を選んだ結果、霞が関を震え上がらせることができたとしても、もっと大事なものを失ってしまうことになるだろう。