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吉川洋東大教授の『デフレーション』について〜3.マネーストック急減は何故起こったか

ちょっと間が空きましたが、シリーズ再開です。

デフレに至る過程では、金融システムの異常、ということが先行して起こっていたものと思います。それは、バブル崩壊過程でもあり、90年代前半から中頃までの、主に97年以前の出来事でした。

特に、マネーサプライが急減したわけですが、この理由というものが何かということについて、当時から論争のタネであったようです(が当方は全く知りませんでした、忙しかったし経済学には何らの興味も持ってなかったので)。


当方の考えてきた理由というものは、過去記事でも指摘してきましたが、改めて書いておきたいと思います。


①「バーゼルⅠ」導入と自己資本規制

国際業務を行う銀行に課せられたルールがこれだったわけです。8%以上の自己資本という規制が欧米先進国主導で決められました。このこと自体は特に問題ということでもないわけですが、当時の日本の銀行の多くは自己資本が薄い、という傾向にあったはずです。また、持合株のような傘下企業群の株式を抱えていたりもしたでしょう。当時は系列(ケイレツ)がまだ生きており、グループの結束はそれなりに堅かったわけで。メインバンク主義も、そうした仕組みに適合していたものと思います。

こうした邦銀狙い撃ちとも言うべき銀行規制が導入されることになり、貸出余力が削られたり、バランスシートを縮小せざるを得なくなったものと思います。貸出姿勢も厳しくせざるをえず、「貸し渋り」と評されました。
今で言うデレバレッジの動きとしては、昔風な言い方では「貸し剥がし」でしょうか。このBIS規制に備えて、銀行は回収を急いだり、新たな貸出を厳しくしていったものと考えられるのです。


郵貯への逃避

株式市場での株価下落によって、資金引き揚げという動きはあったものと思います。当時、「財テク」なる新語が登場してきた時代で、素人俄か投資家たちが生まれた時代だったのです。そういう「財テクブーム」で株式市場から撤退した資金などが向かった先は、金利の高い金融商品でした。利付や割引金融債というのもありましたが、かなりの資金が郵貯の定額貯金に向かったものと思います。その大量資金シフトが発生したのが、たぶん91年頃ではなかったかと思います。

公定歩合引き下げ前に金利を確定しておきたい、ということもあったかもしれません。何と言っても、6%10年物でしかも半年複利という、オバケのような商品だったわけですから。

このような資金移動が急激に起こると、銀行預金などの資金が移ったりもしたはずで、銀行の貸出余力はそこでも削がれたはずです。総預金残高が減少すると、見合いの資産減少ということになってしまうわけですから。

しかも郵貯は貸出できないので、マネーサプライにはあまり貢献できない。財投資金とかの「ハコモノ」になることで、公共事業としての押し上げ効果が出てくるかもしれませんが、銀行融資のようなマネーサプライ増加効果はないものと思います(当時の郵貯資金はその殆どが預託金として特殊法人等に流し込まれたか、財投資金だったのでは)。


③益出し売り

銀行や法人を中心に、保有株式の所謂「益出し」売却で現金化が進めらるという動きは加速していたのではないかと思います。特に、株価急落局面では、売り急いで利益確定の益出しをすることで、業績の「見栄え」というか体裁を保つということと、手元資金を確保するということが行われたのではないかと思います。この動きも貸出需要の伸びを抑制するのではないかと思います。


④ノンバンクや住専問題

銀行からの借入で、それを「又貸し」していたノンバンクや住専などが貸出ていた部分が、ほぼ資金循環が止まることになったことにより、貸出抑制となっていったはずである。巨額不良債権の発端は、不動産価格低下と建設不動産部門の倒産が相次ぎ、その不振が住専やノンバンクに波及したことである。両者は、銀行借入という資金調達に頼り切っていた構造だった(出資も銀行等がメインだった)ことで、銀行業績に直結することとなった。



上記①〜④が一致した時期(91年前後)に発生してきたことで、日本は深刻な信用不安&バブル崩壊の被害へと繋がっていったものと思う。