怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

年頭のお願い

そんなに大した話ではないのですが。なんとなく思ってきた(以前の記事にも書いてきた)ことを、とりあえず書いておきます。


①未来を作るのは自分

よく見かける批判に、「ビジョンがない」「ビジョンが見えない」といったものがある。間違っているわけではないけれど、ヘンな宗教の教祖とかペテン師でもあるまいし、話を聞かされたくらいで多くの他人に「何か」を見せることなどできないのではないか、と思うわけです。

多分、ビジョンがない、というのは、ある人の能力とか資質といったものであって、何かの「ばら色の未来」(多くの人はそんなことを求めているわけではないだろうけれど)や「わかりやすい国のかたち」といったものを簡単に決めることなどできないであろう。そんな超人みたいな人は、きっといないのではないかと思う。

たとえ首相が思い描く未来があろうとも、そのことを万人に求めることはできないだろうし、それが受け入れられるとも限らないであろう。1国のリーダーが考えたって、高が知れてるということなのではないのかな、と。

だから、国のリーダーにはビジョンがない、ということが当てはまるのだとしても、そういう人物を選んだ有権者側にも責任があるわけであり、リーダーの無能を嘆いても仕方がないと思うわけです。

そうではなくて、ビジョンというのは自分にあるのであり、未来を切り拓くのも、結局は自分ということなわけです。首相の考える国の未来を当てにしても、期待できないであろう、ということでもあります。むしろ、自分の中にこそ、未来像を持つべきではないかな、と思うわけです。他人に見せてもらうべきものではないはず、ということです。自分が作るべきもの、ということです。

政治には、予想できるかどうか、というようなことは求めるべきです。どうして将来不安が強まるかといえば、どういう方向に進むのか予想がつかないから、ということだろうと。従って、政治が提示するのは、「ばら色の未来」なんかじゃなくて、各人が未来を考えるとき、その予想が行いやすくなるように条件や材料をきちんと提示するということです。

そうした「予測可能性」の高まった状態とか、予測可能性を高める政策を皆さんに示すことが国やリーダーの役割であり、未来像は各人がそれぞれに構築してゆくものであるはずだ、ということです。


夢は誰かが見せるものではないはず。
夢は自分が見るものです。それと同じく、未来の夢や姿というのは、自分の中に作るものであるべきではないのかな、と。ならば、首相にビジョンを見せろ、と求めるのは意味がないので、今後そういう批判は止めにしましょう、ということです。

求めるのは、「〜について予測する条件が足りないので、条件を提示せよ」といったことではないなか、と。政策の大部分というのは、多分そういうことだろうと思います。


②「ダメ」「できない」ばかりから卒業しよう

これもよくある批判なのですが、「〜してはダメ」ばかり言っても、問題は解決しないということです。新しいアイデアや提案などに対して、「〜なので、できない」ということばかり言うのもやめませんか、と。

こういうことばかり言うのは、官僚答弁と揶揄されるようなものではないですか、と思うのです。実際の官僚がそう言ってるかどうかは定かではありませんが、ありがちではないかな、とは思いますよね。

ぼく自身もありがちなのですが、まず否定から入ってしまう癖、みたいなものです(それなりに反省しています)。
まずできない理由から考えてしまって、逆に「どうすれば達成できるか、乗り越えられるか」ということを後回しにしてしまいがちなのではなかろうか、と。

日本は長らく落ち込んできたので、気分もそういう方向になっているような雰囲気があります。そうやって戦意が乏しくなったり、失われてきたように思います。これを極力避けよう、ということです。

そこで、「〜はできない」からではなく、「こうすれば達成できるかもしれない」という肯定から考えてみてはどうか、ということです。
現実には壁に突き当たったり、行き詰ることが多いはずですし、考えてもやっぱり達成が困難という結論に至ることもあるかもしれません。それはそれで無意味ということではないはずです。次に繋がるかもしれないし、新たな解決策を見出せるきっかけになるかもしれません。


だから、否定材料を探すのではなく、まず達成可能な方法から考えるようにしてみてはどうか、ということです。
そうすれば、政治や政策論議に前進が起こるかもしれません。



とりとめのない話で申し訳ありませんが、今年は上記2つを自分でも留意していこうと思っています。