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日銀の「物価安定の目途」公表に関する私見

念の為再度書いておきますが、当方はこれまで経済学の専門的教育やトレーニングを受けた経験はありません。従って、権威機関であるところの日銀より優れているとは思っていませんが、当方の考えを主張し批判もします。あくまで個人的考え方であることは、ご承知おき下さい。


1)狭義の「inflation targeting」と異なる、という見解

過日、2%という”goal”を公表したFRBバーナンキ議長は、質疑において「いわゆるインフレターゲット政策とは異なる」というふうに説明・発言したようである。日本のマスコミでは、これをもって「インフレ目標インフレターゲット)政策とは異なる」、といった論調が見られたようである。
確かに過去の学術的な分類ないし定義としては、異なるという意見はあり得るだろう。ただ、いくつかの類型や政策の捉え方自体の変遷などがあったかもしれない。

日銀は論争となってきた論点についてはほぼ網羅している、といったことを書いたことがある。
06年2月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/2635b619298343d141ce202fcfd64f31
(再掲)
『それは既に出された経済学論争とか、よく出される問題点ということについては、多分日銀側では少なくとも一度は検討課題として取り上げて殆どを網羅している、ということですね。インフレターゲットの問題にしても、かなり早い段階から研究をしていて、それで否定的な見解となっているので、これが何故なのかということは更なる謎となっています。どういう経緯でそのような決定がなされるのか、そういうのが実は不明であるのですね。勿論政策決定会合の議事録公開などで少しは分りますけれども、そういうことではなくて、何か「中心命題」のような、それか伝統の「信念・信条」というような特別な思想というものがあるのではないのかな、とさえ思えることです。これが「謎」という意味です。』


インフレターゲットを研究していたというのは、例えば白塚・藤木(1997)のペーパーを読んだから、だ。
http://www.imes.boj.or.jp/japanese/zenbun97/kk16-3-2.pdf

なので、日銀は理論をよく知った上で否定的、ということなのである。06年の記事に書いた通りに、「知ってて間違うのだとしたらかなりのバカ」というのがどうやら答えだったようだ(笑、因みに、論文タイトルでは「ターゲッティング」となっており、当方はブログ記事にもそう書いていたのだが、次第に「ターゲティング」との表記を目にする機会が圧倒的に多く、自分が間違っていたと思って以降「ターゲッティング」とは表記しなくなった)。

これはいいとして、当時のインフレターゲットというものの解釈としては、白塚ペーパーの如く「Walsh/Svensson型」を指していることが多かったと思う。これを「インフレターゲット政策」と呼んできた、ということである。そういう経緯は存在してきたので、これを狭義の「インフレターゲット」(政策)とすると、もうちょっと広義の「インフレターゲット」(政策)も存在するであろう、ということである。
FRBの公表した「goal」も、日銀の「目途」も、狭義のインフレターゲットには該当しないが、後者には含まれるであろう、という意味である。厳密に言えば、旧来から言われてきたもの(Walsh/Svensson型)とは異なるという点で、バーナンキ議長や白川総裁の言われる「インフレターゲットとは異なる」ということになるし、一部マスコミの言うのも妥当となる。

ただし、研究対象とされたNZやカナダやスウェーデンなどの中銀の運営を見ると、90年代当初から言われてきたような画一的運用方法というのは取られなくなっていると言えそうであり、インフレターゲット政策という概念そのものの変容があったということもできよう。その点においても、狭義のインフレターゲットと、もうちょっと緩やか(柔軟)な広義のインフレターゲットを区別する意義というのは薄れてきているだろうし、「インフレターゲットと呼ばない」と厳密さを追求する意味もないように思われる。


2)物価安定の「理解」から「目途」へ

まあ、日銀ウォッチャーにとっては常識の範囲であろうと思うが、この「理解」に至るまでにでさえ、色々とあった。
総裁会見などにおいて、それはインフレターゲットという意味合いか、ターゲット導入が云々、等々、マスコミなどから質問などが出されて(勿論外れた内容のものも多いだろう、ただ単に専門用語を言ってみたかっただけ、みたいなものも多くあったであろう)、その度に「ターゲットじゃない、インフレターゲットなんか導入できない、目標ではない」といった否定的見解を述べねばならなかった。ちょっと前だと、「参照値」なる用語も存在していた。

で、06年3月の量的緩和解除の時に出されたのが、「理解」であった。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/88a0b3019fe59d5b3c03003bb4813e49

ECBで2%以下(かつ2%に近い数値)とされていたので、概ねそれを踏襲しようということであったろう。中心値1%も同時に公表されたわけである。この時以降にも、「1%というのは、インフレターゲットのことか」みたいな質問が毎度毎度出されることになったのだが、いや違う、”理解”だ、あくまで分布だ(理論的には0%が理想だけど、仕方なく1%と言っているだけ、というか本音でも0%以下)、と、説明せねばならなかった。

こうした背景があって、過去の「インフレターゲットなんてダメだ、導入できない、そんなもんは百害あって一利なし」みたいに否定してきた歴史があるので、今更それをひっくり返すこともできないわけです。死んでも「目標」なんて言うわけにはいかないのです。「理解」とは「目標」ではない、としてきたのですから、他の用語を生む以外にない、と。日銀としては、これまでと政策運営は同じであり基本的に何も変えてない、という立場でしょうから、目標とは言わないわけです。FRBでは、
 ・target ≠ goal
としたので、日銀としても、
 ・目標 ≠ 理解(これまで)
 ・目標 ≠ 目途(今後)
ということにした、というわけです。で、目途≒理解、ということですね。

こうした数値を公表すると、一種のアンカーのような感じなることも考えられ、中銀が公表した数値に次第に収束してゆく、といった見方もあります。先日笑いを誘った安住財務大臣の発言みたいなもので、仮に「75円を超えると円売り、78円以下なら円買い」と介入水準を事前に公表してしまうと、そのレンジに拘束されるようになってしまう(それに整合的に経済主体が行動しようとしてしまう)、というようなことであろうと思います。

恐らく日銀の言う目途とは、どちらかといえばoutlookに近いもので、目標というよりも「(将来)見通し」といった性格のものではないかと推測しています。日銀にとっては、その水準とは「目指すもの」ではなく、結果として「そうなってしまうもの」というような感じであろうと思います。自分の意思や主体性によって、どうにかする、コントロールする、というものではなく、受動的に「こうなってしまったな」というようなものだ、ということです。そうであるなら、中銀としての役割放棄に近いものであるかもしれません(笑)。だって、病気なのは「患者の体が悪いからだ」と放言するかのような日銀ですから。


3)広義のインフレターゲット政策の意味

元々の定義とか上記「Walsh/Svensson型」だの採用国(英・加・NZなど)との合致度合いとか、それらは別として、中銀の運営方法としてはそれなりに優れている部分はあるだろう。特定数値のみに厳重に拘束されない、というのも当然といえば当然なのであり、よりよい方法になるように改良を加えてゆけばいいだけではないかと思える。

05年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5b7c428285c3a5266d882864f3857192
(再掲)
「松銀」と「梅政」をそれぞれ別なものに置き換えるとどうでしょうか?そうです、多くの方々がお気づきの通り、「日銀」と「政府」ですね。名医の御殿医ばかりが登場するとも限らず、いってみれば「グリーンスパン」が代々続くことの方が困難なのであり、御殿医の力量における個人差を減らすことを考えるならば、一定の客観性のある指標による政策決定は「透明性」とか「客観的評価」に優れるものなのです。御殿医の「さじ加減」の比重を大きくして、それに依存する金融政策というものが、安定性とか信頼性において優位であるとは言い切れないのではないでしょうか。「インフレーション・ターゲッティング政策」は、TDMの「血中濃度による治療域の指標」ということと同じ意味合いを持ちます。
 (中略)
普通に考えて、指標を採用するというのは、今まで「これで塩梅が良さそうだ」「この判断でいいはずだ」「投与量が少なすぎるかもしれない」・・・などと自分の頭の中で考えてきた(判断した)プロセスを、自分の思考が見えない周りの人達にも「見える」ようにする、ということを行う作業であると思うけどね。なぜ「この御婦人には、投与量を1錠で良いと判断したか」ということは、いくつもの理由があって、判断材料となる所見もある訳です。そういうものを詳らかにしていく、ということに他ならないのです。血中濃度測定では、自分の判断が裏付けられる・確かめられる、ということなのです。これまでは、自分の「経験と勘」ということが重視されてきて、その判断の根拠は他人には見えなかっただけなのです。そういう意味合いのものが、数値データで示される「指標」であろうと思いますね。

料理人は自分の舌を根拠として判断しますが、これは結構難しいかったりします。料理の中に含まれる、ある指標だけ(例えば塩=塩化ナトリウムとかですね)をピックアップして濃度測定を行ったとしても、必ずしも「美味しい」という評価にならない場合も有りえます。それは一つの数値だけに囚われることが、かえって全体を損なってしまうことも起こりえるからです。人間の味の感じ方(敢えて味覚ではなく「感じ方」とします)は、体調とか環境などにも左右されたりするかもしれず、熟練度の高い料理人の「経験」というものが案外と数値では測れなかったりすることがあるからですね。そういう「職人技」というのはどの分野にも残っていると思うし、金融政策における判断にしても「職人技」がきっとあるでしょう(ですよね?)。そういう部分は弾力的な面があってもよろしいかと思いますし、絶対に数値を外れちゃならねえ、ということではないと思います。』

インフレターゲットを採用した場合の、具体的デメリットというのがそんなに重大なものがあるとも思えず、上記再掲文に書いたように、
・透明性、客観的評価に優れる
・(政策決定者の)判断プロセスを周囲に可視化
・特定数値だけに囚われないこと(他所見も組み合わせて総合的に判断する)
というのも、ごく当たり前のことであるとしか思えないわけです。
これについては、先日のFRBの記事(http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/f9680fdcb431f31505be046a2cacc48e)でも書いた通りです。
とりわけ高度で難しい経済学の理論なんかを知らずとも、常識的に考えてみれば分かりそうな程度のことではないのかな、ということです。


4)「1%」という水準について

以前の理解であると、「0〜2%の範囲にあり、中心値は概ね1%」ということであったわけです。こうした低い水準を選んだ場合の問題点として、バーナンキ議長がサラッと答弁していたことに関連しますが、「半分くらいはデフレ下に置かれる」ということがあるのではないか、ということなのです。

参考>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/401c218fb72d69be5bc691b814315b7a

大竹先生の研究では、家計が正規分布様になっており、CPIがプラスの値をとっていてもデフレ下に置かれる家計というのがかなり存在してしまう、ということがあるのです。

もう一点は、調節性の問題ということがあるかと思います。
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/de18aad67a7c93e06eb6fc81f72216e9

低いとレンジが狭いが故に、マイナスに突入するリスクはあるだろう、ということです。ひょっとして4%はどうよ、というBlanchardの意見さえあった(http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/d43b0af25e1631fad61441ff96d92fe6)くらいですので、「1%」水準であると低すぎるのではないか、ということがあるわけです。もしも、日本ではインフレ率が海外諸国のように、ガンガンうなぎ上りにはなって行き難いよ、ということであるなら、元の水準をやや高めにとっていたとしても、インフレ亢進リスクがそんなに高いわけではない、という見方もできうるかもしれません。

ならば、米国で2%、ECBでも2%に近い水準、ということなのですから、日本も同じ程度で何ら問題ないのではないかとしか思えないわけです。
仮にバイアス問題がある、経済主体によってはデフレ下に置かれる可能性がある、調節性のこと、というのを考慮して問題点をクリアしようと思うならば、当然に2%程度の水準が必要になってくるわけである。
白川総裁が将来時点での水準引き上げの可能性について言及したようではあるが、今になってそう言うのではなく、ずっと以前から分かり切っていた論点であったはずなのである。

日銀の責任は言うに及ばず、マスコミや日銀擁護の識者だの経済学者たちといった方々にも責任があると言えよう。いずれも日銀に対して、「この方向に進むべきだ」という正解の道筋を示してこなかったから、である。だからこそ、これほどまでに長い時間を、間違い続けてきたのだ、ということなのさ。その結果が、20年にも到達しようかというほどのデフレ継続だった、ということなのだ。

今後には、正しい方向に進んでくれることを望む。
日本経済を立て直し、国民生活を再建できる第一歩となるからだ。