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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

栗原裕一郎氏の古市憲寿氏に対する指摘に疑問あり

『本当の経済の話をしよう』という対談本の著者らしい栗原氏が、その本の中での記述について、古市氏とやりとりがあったようだ。

http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/20121015/1350305314

記事中で古市氏への反論とか指摘があるようだ(謝罪もある)が、少し気になったので書いておきたい。まず、以下の部分。


古市さんの議論を見ますと、「国民生活に関する世論調査」において、20代の7割以上が生活に「満足」していると示したその次に、小見出しを挟んで、「二〇一〇年を生きる若者は、過去の若者と比べても、「幸福」だと思う」と展開しておられますが、「生活満足度」と「幸福度」は統計上別概念ですので、飛躍しています。

早い話が、「生活満足度」と「幸福度」は別な調査なんだから、古市は満足度が高いからといって「幸福」と言うべきではない、というようなことを言っているものと思う。確かにそういう一面はあるかもしれない。

多分、古市氏としては、「今の若者はそこそこ満足感を得ているわけだから、(周囲がそんなに言うほど)不幸だ不幸だとは思っておらず、案外と幸せに暮らしてるんじゃないの?」という提起(?、主張?)であると思う。僕は今の若い世代の人たちは、自分の同じ年頃の時と比べて、はるかに立派だし偉いと思う(いずれ別に書きたい)。だから、古市氏の意見に対しては肯定的な印象を持ている。そういう主観(バイアス)があるということは、予めお知らせしておきたい。


で、栗原氏の飛躍すんな、というご忠告はまあ聞いておくとして、気になった部分は

 「生活満足度」と「幸福度」は統計上別概念

という部分である。


研究者なら正しいことだけを言うべきだ、というようなことが栗原氏には当然のこととして前提にされているのかもしれないが(古市氏は「幸福だと思う」と言っているだけ=断定ではないのだから別にいいんじゃないかとしか思えないけど)、かなり厳密な水準を相手側に要求する場合には、ご自身でもその水準を当然に遵守すべきであると思う。


さて、話を戻すが、統計上別概念、というのは、意味が全く分からない。統計的に別である、みたいな判定が過去になされているならば、その文献を示せるだろう。普通は、「生活満足度」として、項目A、B、C…を(質問項目として)設定し、それをこの調査報告(論文)中においては、生活満足度と定義する、というようなことが行われているだろう。同様に、「幸福度」なるものについても、何らかの判断基準が設定され、それが調べられているものと思う。


問題は、それらが議論する際の客観的指標として確立されているのか、ということだ。ある調査報告における「幸福」の定義は、他の文献等とは異なっているかもしれない。そのような問題を考えたり、クリアするべき課題なんかの研究結果は提示されているか、というのが気になるわけである。フランスだったか、新たな幸福の指標を研究します、というような報道があったと記憶しているが、多分まだ完成版の指標は作られていないんじゃないかな、と思う(日本は下位だという幸福度の国際比較が毎年出るから、調査ごとで指標が組まれているであろう)。

そういう曖昧でしかない「幸福度」とか「生活満足度」を捉えて、「統計上別概念」なんて、何をもって言えるのか、という話になるわけである。その真意も意味するところも、まるで判らないということだ。統計学的な調査結果に基づいて区別されている「概念」ならば、そういうことも言えるんじゃないかな、という話だ。そんなものがどこにあるのかな、と。それとも、生活満足度が高い人は幸福ではない、みたいな話があったりするなら、教えて欲しい。


例えば、血圧というのは、測定方法とか客観的な数値などでもって、定義される。だから「高血圧症」というのは、具体的な診断基準として示されているわけである。ある数値範囲をそのように「定義しましょう」という統一的基準が作られているわけである。だから、別の先生とか医者が喋っていても「高血圧」という用語が用いられる時には、特定の基準に合致しているというのが前提として理解されている。
だが、「幸福」や「生活満足度」はそうなっているのか、ということである。統計云々で区別せよ、と言えるのは、血圧と高血圧症のような「定義」が確立されたものについてであろう。その為には、まず「幸福」という概念について、統一的定義を確定せねばならない。賛同者が多くなれば、世界中に共通の指標として広まるだろう。
指標を指標として通用するように、統計学的な手法を用いて定義付けできたならば、「幸福度」という指標は「生活満足度」と(定義が)異なります、と言えるんじゃないでしょうか。それは、例えば「平均血圧」と「収縮期血圧」と「平均動脈圧」は違う数値を示すものです、と指摘できるようになるということ。


また、仮に定義できたり、数値化できたりしたとしても、それがどの程度有効なのか、弱点はどういうものか、といった問題は簡単には解決できない。

例えば、痛みの測定という例を過去にも書いたことがあると思うが、また挙げておくことにする。

数値で測れるデータがあっても、指標として問題がないわけではない。
Pain Visionhttp://www.gamenews.ne.jp/archives/2007/03/_pain_vision.html


他にも、VAS、Face scale、NRS、質問票などといった指標もある。
http://maruishi-pharm.co.jp/med/libraries_ane/anesthesia/pdf/40/02.pdf


※ちょっと追加:

何故、「痛み」の測定について例示したか、というのを書いてないと判ってもらいにくいかもしれないですね。
それは、「痛み」というものが各個人によって感じ方とか答え方とかが違う、というものであるからです。傍から見て「オレならあんまり痛くなんかないよ」という程度だとしても、当人の感じ方は一致しているとは限らない、ということです。人によって、結構違う、そういうものだということです。「幸福」というのもそれに似ており、周りからは「十分幸せそうだ」と思っても、当人にとってはそうではないこともあるし、逆もありますね。「こんなどん底生活の何がいいの?」と見えるような人でも、「幸せに感じる」という人はいくらでもいると思いますので。
つまり、中々評価が難しい、ということであり、かなり主観による(個人差、感受性も異なるかもしれない)部分もあるし、当人以外からは確認のしようがない・確かめることが難しい(再現性も難しい)というものであるから、ということで例示しました。


指標というのは、定義ができたとしても、それぞれに利点・欠点などもあったりして、組み合わせなどで総合的に判定するということになるのが普通、ということ。幸福度と生活満足度の指標構成がとても似ているとか近いというものだったり、比較的強い相関の存在があったりということであれば、幸福度を測定できずとも、代替できうるという議論は成り立たないわけでもありますまい。


仮に、栗原氏の言うWVSのデータの信頼性が高いのが事実であるとしても、それだけでは判定が難しいかもしれないし、内閣府調査を否定する材料とか根拠になるとも限らない。それぞれのデータの持つ意味とか、定義とか、問題点などを比較してみない限りは何とも言えない、というだけでは。
WVSが優位(正しい)で、内閣府調査はダメ(間違い、信憑性欠ける)みたいな言い分は、現在のところ主張できるものとは思われない。どこにも、そういう検討結果が示されていないからである。それとも、若田部教授か栗原氏がそういう検討結果を出した、或いは誰かの論文で既知となっているということでもあるのだろうか。単純に「WHOのデータは正しく、厚生労働省の出したデータは信頼できない」とか、何の根拠もなく主張するのと似ている。


つまり、たとえ古市氏がWVSを知らなかったとしても、古市氏の論を覆せるだけの根拠とはなっていないということである。「内閣府調査はWVSより信頼できない」と考える根拠について説明できた(主張した)者であれば、どうして内閣府調査を使ったのか、と問い詰めることもできるだろう。挙げる理由として、サンプルの問題とか長期の調査での統一性とか、不備となる点を指摘できるならどちらのデータを信頼するか、という話ができるかもしれない。



次に、以下の部分。

こちらを見ても、世代ごとの幸福度、および推移に有意な差はありません。せいぜい、日本人は全体的に「幸福」になっているかなという程度で、若者(15-29歳)の幸福度が他の世代に比べて特に上がっているということはできそうにありません(データの取り扱いに関しては、飯田泰之氏に助言をいただきました)。

WVSのデータの有意差検定をした、ということなのだと思うが、当方もちょっとやってみた。すると、15〜29歳の90年と2005年だと有意差あり、という結果となった(81年と05年の比較であると、P<0.05には僅かに届かない)。

カイ二乗検定で、P<0.01には至らなかったが、P<0.02の危険率で有意差あり、だった。また、81年〜05年の15〜29歳はP<0.1水準で有意差あり、だった。

(因みに、例の上限金利問題での早大教授の坂野ペーパーでは、確かP<0.1という水準の”有意差あり”の判定だったが、それを有難がって金科玉条のように正しいものとして取り扱っていた方々を飯田先生がご存じないはずもなかろう)

検定方法の選択や計算が間違っているかもしれないので、自信はないです(参考までに90年当時の若者というのは、私がその世代ですが、今の方が幸福感は高いですね)。もし、よい検定結果なりを持っている人がおられたら、是非ご教示下さい。


とりあえず当方の検定が正しいとして、早い話が、90年に大卒の22歳だった人と05年の同じ年齢の人を比べると、05年の人の方が総じて「幸福度」は高いだろう、ということだ。古市氏の論が、必ずしも間違いとも言えない(内閣府調査のデータは全く見てません、WVSの数値を検定するのが精一杯で)。

栗原氏の言う「有意差なし」という判定は、どういう比較だったのか判りませんが、81〜05年の5つの数値が、3世代間で違うかどうか、ということを見たのかもしれない。それだと、確かに有意差は見られなかった。
ここで重要なことは、栗原氏が古市氏に指摘するなら、検定方法と結果くらいは示せるはずだ、ということ。有意ではない、と著者に言うからには、その根拠を言え、ということだな。


統計的な検討というのは、まあ、古市氏あたりもやった方が良かったのかもしれないが、必ずしも議論が的外れ、ということにはならないのでは。根本的な問題としては、幸福度を扱うのであれば、まず「幸福度」とはなんぞや、というのを定義するところから始めるべきであろう。
そういうのを飛ばして、とりあえず「時流」を言う(具体的な例としては、『パラサイト・シングル』とか『下流社会』なんかの言説)のであれば、事足りるということなのかも。その方が個人としては注目されたり、本が売れて儲かったりするし(笑)。そういうのが気にくわない、ということなのかもしれない。

地道に積み上げる研究みたいなのを学界全体とかが「やろう」という風潮・慣習?にならないと、多分変わらないんじゃないのかな。神学とか哲学みたいなものの延長で、「誰という(偉い・有名な)人がこう言ってるor書いてる」というのが重視される、ということ。それは、日本の経済学でも五十歩百歩なのでは。殆どの「経済学者」とかいう肩書の連中だとか、経済学に詳しいとか、金融財政のナントカみたいな専門家面した連中が、好き勝手なことを言ったり書いたりしてるから、まずは経済学の世界こそを浄化してみるべきなのではないのか。まあ、これも本題ではないから、別にいいか。


結論を言うと、古市氏の言い分に「そう目くじら立てるほどの事でもない」としか思えず、大袈裟に「有意差アリだ、ナシだ」とツッコミを入れるほどの議論でもないのでは。いや、厳密にしっかりと研究をやりたいというなら、若田部先生でも他の誰でもいいけど、定義から結果まで出せばいいんじゃないでしょうか。
ま、偉そうに言う学者先生方が、上限金利引き下げ後に「闇金が増え(る)た」とかいう口から出まかせみたいな意見を、誰一人として「有意差アリ」を立論できた人間なんぞいなかったでしょうに。他人には、「有意差ありのものについてのみ、言え」で、自分はどうでもいい、という論かな?(笑)


寧ろ「経済学を騙った(学問の装いをした)」ウソ八百や出鱈目言説の方が圧倒的に害悪であり、現実世界に多大な悪影響を及ぼしており、真に矯正し浄化すべきは「経済学」の世界の連中である、としか思えない。


少なくとも、栗原氏と若田部教授には、

①WVSのデータが信頼性高く、内閣府調査はダメ(→だからWVSのデータを用いるべき)
②WVSデータで有意差なし(→だから古市論説は主張できない)

をまず立論するべき義務があるでしょう。
それができないなら、指摘したこと自体が間違い、ということですな。古市氏の議論に穴があるとしても、それと大差ないのが栗原氏と若田部教授の意見であるということかと。



上記をまとめると、当方の意見としては、

①に対して:
・そんな証拠がないならWVSを重視すべき理由は見い出せない
・「幸福度、生活満足度」の指標・調査方法等の違いがあるのは止むを得ない(幸福度の定義が不明確だから)
・幸福度判定をするにしても、単一数値は要注意(いくつか組み合わせを推奨、総合的に判断すべき)

②に対して:
・90年と05年の15〜29歳において、有意差あり(0.01<P<0.02)
・81〜05年の15〜29歳の5つの数値において、有意差あり(P<0.1)
(ともにカイ二乗検定


ということです。