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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

続・シリア難民はアサド転覆戦争の犠牲者

(続きです)


5)国際社会の初期対応はどうだったのか?

アサド打倒を目指す米国からすると、2011年の騒乱の発展に時間がかかってしまってイライラしていたことだろう。デモ隊の鎮圧とか、叛徒の制圧といった話で終わってしまうと、戦争の儲け話にはつながらない。

反政府テロ集団には、散発的に銃撃戦をさせたり、自動車爆弾で自爆テロを仕掛けさせたが、戦争という状態ではなくテロ行為でしかなかった。が、どうにか騒動を継続させ、ようやく国連人権高等弁務官事務所をして、「これは事実上の内戦である」と言わしめた。

当初の予定では、2012年中には米国他が”参戦”できる計画を組んでいたのかもしれない。それには、介入の口実にできる、「大義名分」というものが必要だった。これが中々難しかった。市民を虐殺した罪?人道上の罪?
そういった口実を見出そうとはしていたのだが、どうも決定的な理由にはなっておらず、安保理決議なんかでも中国やロシアを説得する論拠が乏しかった。何らかの決定的証拠が必要とされたのだ。

そこで、アラブ連盟の監視団、という手を使うことにしたのである。イスラム世界の対立勢力をぶつける、という手であった。国連監視団よりも、まずアラブ連盟を用いたのには、ワケがあったのだ。それは、ボスニア紛争時の介入と似た手段を用いよう、というものだった。国際紛争ではなく、内戦、この人道上の罪、軍事介入の正当化と口実はこれだ、と。その初手が、11月のアラブ連盟の資格停止処分という制裁措置だった。


ここで、アラブ連盟の地域的取極と国連憲章8章の権限を適用するんだ、という算段が立てられたということ(恐らく主導していたのは、GCC諸国ということになろう)。この件は、類似事例として、イエメンでの紛争例を先日書いた。

国連憲章8章適用を画策した例
15年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/44139d7f8938875ef83a7c779568577b


アサド大統領は、アラブ連盟に対して中立的立場からの停戦・仲裁を拒否していたわけではない。むしろ、申し出に対しすんなりと受け入れているのである。

2011年12月23日
http://jp.reuters.com/article/2011/12/23/tk0693202-arab-league-syria-idJPTYE7BM00X20111223

ベイルート 23日 ロイター] シリア反政府デモへの弾圧停止に向けたアラブ連盟の監視団の先遣隊が22日、同国に到着した。
同連盟筋によると、先遣隊は十数人で金融や法律の専門家らが含まれる。約150人から成る本隊が今月末までに到着するための準備を行うという。
アラブ連盟はシリア政府に経済制裁を科したり、和平案を国連安保理に提出すると警告したりするなど、同政府に対する圧力を強め、和平案への合意を要求。アサド政権は19日、監視団受け入れを明記した同案に署名した。
一方、監視団受け入れ直前の今週、人権団体「シリア人権監視団」によると、北西部イドリブや中部ホムス、南部ダルアーで弾圧により130人以上が死亡。同団体は、監視団が到着する前に政府がイドリブやダルアーで弾圧を強めているようだと指摘した。
英国を拠点に活動する人権団体「Avaaz」は22日、反政府デモ弾圧による死者は、政府側も含めて6237人以上に上るとし、そのうち少なくとも400人は子どもだとしている。

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11年12月27日には、アラブ連盟の監視団本隊がシリア入りした。団長のムスタファ・ダービ団長は、ホムス入りして以降ロイターのインタビューに対し「恐るべきものは見なかった」と答えている。アサド政権軍が完全制圧して、市民を無差別攻撃したり過激な銃撃戦をやっていたということはなかった、ということである。

アサド打倒を狙う連中にとっては、濡れ衣だった、で終わっては、念願の戦争勃発に繋がらない。何としても、軍事介入できる理由が必要とされた。しかし、これといった成果が何一つ得られなかった上、アサド大統領の無実の証拠だけが報じられてしまうことになった監視団は、年明けすぐに撤収命令となってしまった。わずか1週間程度で、引き揚げたのである。
ここで監視団が留まり続けていれば、無駄な血が流されることはなかったかもしれないのに、だ。アサド政府軍が、欧米報道のような残虐行為をやっていたわけではなかったことがバレてしまっては、困る連中がいたんだよ。暴徒対処は、軍隊ではなく治安部隊がやっていたわけだし。政府側は、テロ鎮圧行動をとっていたに過ぎない。

http://jp.reuters.com/article/2012/01/02/tk0697308-syria-arab-league-withdrawal-idJPTYE80100N20120102


何が起こっているか世界の人々がよく分からないまま、12年2月には米国大使館の撤収にはじまり、英仏大使館もこれに右に倣えで在シリア大使館を閉鎖した。日本大使館は、これに遅れること約1カ月後、同じく撤収となったのである(日本の方が遅かった理由というのは、明らかではない。これまで日本大使館の方が現地に長く留まり続けた例というのは多いのだろうか?)。

4月、今度は国連監視団が入ることになった。安保理決議で派遣されることが決まったわけだが、4ヶ月後の8月には撤収が決まった。停戦に効果がないからという理由で、だった。治安悪化の最大の理由は、反政府テロ集団との小競り合いが続いていたことであり、小規模戦闘が繰り返され、数百〜千人レベルでの死亡者が出ていた。

そして、この撤収翌日、8月20日に、ジャーナリストの山本美香さんが射殺された。
戦争を生み出す為である。
シリア政府軍を攻撃する口実にしたいが為だ。
政府軍による銃撃で射殺された、と公表したのは、自由シリア軍の報道官という人物だった。日本人ジャーナリストなんかに、シリアで起こっている本当のことを報道されては困ることがある、ってことだ。日本人にテロの恐怖を植え付け、アサド政府軍の罪を喧伝することに利用されたんだ。


1月のアラブ連盟監視団を撤収したことも、国連監視団を増強せず、或いは平和維持軍の派遣に繋げることもせず、敢えて「騒乱を長引かせたい」と。「ここでやめてもらっちゃ、困る」という連中が、大勢いたんだよ、シリア国外には。

12年10月には、ブラヒミ国連・アラブ連盟合同特別代表らの停戦案がアサド政府と反政府勢力とに提案されたが、履行されることはなかった。わざと停戦合意を破るように仕掛けていたからさ。もう、次の行動の絵図が出来上がっていたから、だ。

そして、11月、いよいよ米国が本腰入れて参戦する準備が整ったかに見えた。

https://kotobank.jp/word/%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%82%A2%E5%9B%BD%E6%B0%91%E9%80%A3%E5%90%88-190351

2011年1月から続いているシリア騒乱の中、バッシャール・アル=アサド政権への対抗勢力として12年11月11日に結成された政治組織。反体制各派が合同し、軍事組織「自由シリア軍」をも傘下に収めた統一組織として発足した。発足時のメンバーは約60人。代表は、穏健派イスラム教説教師でイマーム(イスラム教徒の統率者)であるムアーズ・アル=ハティーブ師。発足当日の11日から13日にかけて、湾岸協力会議アラブ連盟、フランス、米国が、シリア国民連合を「シリア国民の正当な代表」として承認、アサド政権後の受け皿となる暫定政府づくりを促した。
(2012-11-16)

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このように、米仏とGCCアラブ連盟が協力して、アサド排除を既定路線とし、暫定政府を承認することとしたものである。拙ブログにおいては、「尚早の承認」ではないかと指摘したものだ。
アラブ連盟は13年3月にこの団体の加盟資格を正式に認めた。つまり、外形的に正統な代表政府ということにした、ということ。シリアが内戦状態であるとしても、正統政府をアサド政権から反政府テロ集団に移動させることになれば、重大な国際問題となるわけである。
こうした「アサド政権憎し、アサドを排除すべし」という目的の為に、反政府テロ集団であった武装勢力に、米仏やGCC諸国を筆頭とするアラブ諸国が実質的に軍事支援を続けたことが、シリアの現在の崩壊を招いたのだ。
初期の対応が根本的に誤っていたから、ここまで悲惨な状況を生んだのだ。

外国政府を転覆せんが為に、米仏GCC諸国がテロ支援を継続した。本当に邪悪な連中は、誰なのか?テロ支援国家たる、米仏ではないのか。


6)フランスが加担したワケとは?

これも陰謀論的な話でしかない。ただ、英国がシリア問題対処で米国との共同歩調を拒否したこともあって、米国は誘える仲間がいないと踏み切れないという態度だったろう。そこで、袖にされた英国ではなく、フランスに転じたわけだ。すると、話に乗ってきてくれることになったわけである。


フランスでは、権力交代時期が重なっていたことが、シリア問題の片棒を担ぐことになったであろう。
サルコジ大統領は、どちらかと言えば「英雄」タイプであり、オバマ大統領の言うことをすんなり聞いて、どうこうしたいと思う人間ではない。もっと「自分が世界の中心だ」的な発想の、叩き上げ系の人間である。リーダーのタイプとしては、プーチンに近い。なので、独自路線というものを信じてきたし、大事にしたいわけだ。他人の指示だの米国の連なりだのといったものに、興味はないのである。

サルコジには、野望があったはずだ。以前から書いてきたが、中国との関係重視で、IMF改革―SDRと人民元―問題にいずれ踏み込みたいと考えていたであろう。

米国がフランスへの締め付けに使った最初の手は、ルノー日産の問題だった。多くの人は忘れたか気付かぬうちに終わってしまったかもしれないが、ちょっとした事件だった。因みに、米国が好んで用いるようになったのが、自動車会社叩きだということは覚えておくとよい(三菱とて例外ではなかった、ということは記憶しておくべき)。トヨタバッシングで効果絶大だったからね。VWの問題にしても同様。発覚経緯は、全て「盗聴、のぞき見」の集大成の結果である、ということだわな(笑)。


ルノー幹部が中国へ情報漏洩したとされる事件は、「でっち上げ」
11年3月>http://www.afpbb.com/articles/-/2790593

この問題が発覚した当初、ルノー幹部が仏検察の取調べとなり、ゴーンさんはサクっと首切りをした。けれども、事件そのものがでっち上げだったことが判明。でも、米国はこれで終わるはずがない。次の一手も当然あった。

・ストロスカーン前IMF専務理事の事件
11年7月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/274685b14fb9f5a88e37b647cf1786a2


サルコジは次第に政治力を殺がれていった。12年に入ってからは、自らの大統領選に忙殺されてしまった。しかも、リビアコネクションが醜聞として報じられ、カダフィ大佐からの巨額資金授受などで評判を落とした。そして、大統領選挙の結果、オランド大統領の誕生となったわけである。サルコジは去った。
さて、オランド大統領に交代して間もなく、サルコジ時代には冷たくあしらってきた米仏関係の改善が図られることになった。その効果は即、目に見えたわけだ。
それが、シリア問題における米国と一致協力して反政府テロ集団を「政府代表」として承認を与える、というものだった。先進国では、フランスだけが歩調を合わせたということ。
(ユーロ安は、その恩恵かどうか分からないが、オランド交代後に大きく戻したでしょう?偶然かな?ん?どう?その後に、ロシアのルーブルが売り込まれたのも、ただの偶然だと思いますか?通貨は攻撃手段なのだよ、米国側にとっては。だから、世界の通貨改革なんぞやられたら、米国の特権的地位を失うから恐れているし、それを封じよう、邪魔しようとするんだよ)


オランド大統領は、よき同調者であり、今年初めにフランスでのテロ勃発とその後のイスラム国退治の一連の活動は、そうした成果なのだよ。


7)まとめ、とか、その他雑感諸々

もしも、米国以外の主要な同調者が現れなければ、シリアへの破壊工作は中断か諦めていたかもしれない。しかし、12年中には攻撃開始ができそうだと予定を立てていた軍関連の方面からすると、本格参戦ができなかったことが大いなる誤算だった。
仕方なくお友達を待って(フランスだ)、GCCを軸とするアラブ連盟で「有志連合」を形成し、正統政府の入れ替え儀式をやって、さあ13年にはシリアへの本格攻撃だ、と仕切り直したわけだよ。化学兵器攻撃というのも、そうした軍事介入の正当化に用いる口実として用意したものだった。



当初は、アサド政権の「人道上の罪」で攻撃しようとした。市民弾圧、と。
しかし、監視団は正直に報告してしまい、その根拠が極めて弱いということになり、小規模戦闘を現地テロ集団(ヌスラ戦線とかアルカイダのお友達とかみたいなのも含む)に託して時間を稼いだ。
次が、シリア内戦として、正統(自分たちが承認した)政府との軍事協定、からの8章適用ないし集団的自衛権行使を目論んだ。
が、これも「でっち上げ感」満載でロシアとかには簡単に見破られて、ちょっと待ったということになったわけだ。
それで、もっとテロの凄いのを口実にしよう、ということで、イスラム国立ち上げで、イスラム国への攻撃を隠れ蓑にして、アサド政府軍への攻撃を繰り返すということになった。

イスラム国のプロパガンダは、よく効いた。違法だろうと、堂々とシリア領内への空爆を有志国連合が繰り返したくらいだから。
しかし、その嘘も長続きはしなかった、ということ。


遂には、ロシアが参戦することになった。
ロシアがグルジアに介入した後、南オセチアで現在のシリアのような紛争が続いて住民がみな脱出し、難民になったという話を聞かないが、それはどうしてなのだろうか?
むしろ、停戦に強力な効果が発揮されたから、ではないのか?


シリア難民の真の敵は、米仏であり、彼らが支援したテロ部隊である。善人の顔をした邪悪な連中が、紛争を煽り、テロを支援し、育て、武器を与え、全てを破壊させたということである。どうりで、イスラム国が破竹の進撃を続けたわけだな。