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専門家というのは、本当に専門家なのか

これに関連するのですが。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/c99ef9b03ec7c0be5fc90a32918017a7

山口利紹弁護士がその後にどういう解釈を出したかは、不明です。それに、ご自身のブログ記事は削除してしまったようだ(ヤフー記事は残っている)。クリアーにしてくれないか、と求めていたわけであるが、その解決が図られたということなのであろうか。


一方、こうした謎の法的見解を主張する専門家というのは、山口弁護士に限った話ではないようだ。


11月6日付 日本経済新聞朝刊より
http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0505T_V01C12A1EA2000/

タイトルはこれと変わっており、次のような見出しであったようである。


『大臣決定、妥当性は 不妊化大学が法的措置も
 裁量権を逸脱/認可権は文科相  専門家、割れる判断』

(一部引用)

このまま開学できなければ、大学には施設整備や教員採用などで損害が生じる。秋田公立美術大の開設を計画する秋田市や札幌保健医療大の設立準備をしてきた学校法人は訴訟を検討している。今後は行政不服審査法にもとづく不服申し立てや不認可撤回を求める行政訴訟、損害賠償請求などに発展する可能性がある。ただ、係争の行方については専門家も意見が分かれる。

行政訴訟に詳しい阿部泰隆弁護士(神戸大学名誉教授)は「審議会は大学設置基準にもとづいて答申を出しており文科相が設置基準に従った答申に反した判断をするには合理的な理由が必要」と指摘する。「大学数が多いというのは、設置基準にはないので理由にならず裁量権の逸脱だ。訴訟になれば文科省が負けることは明白」と話す。

これに対し、行政学の新藤宗幸(千葉大学名誉教授)は、認可権はあくまで文科相にあると指摘する。「慣行に照らせば田中文科相の判断はいきすぎだが、法的責任を問うのはむずかしい。訴訟を起こしても最終的な判決が出るには数年かかるだろう」とみている。

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この記事を書いた人は、法的手段の候補として、
行政不服審査法による不服申立て
行政訴訟
・損害賠償請求訴訟
を挙げている。


まず、この時点で間違っている。
学校教育法では行政不服審査法での申立てというのは除外規定があるので、できない(139条)。恐らく、一般論としての「道具立て」として、ささっと直ぐに考えられるのがこれらではないか、というような解説をされたのであろう。そして、その解説をした人間は、専門家を自認しているであろう人であり、その人が誤った説明を行ったのではないかと思われる。記者氏が尋ねる相手を間違えたのではないか、ということである。


行政不服審査法は、基本的に上級庁の存在があり、そこでの判断が可能なもの(つまり逆転判断は起こり得る)というのが基本的にあるはずなので、この場合の大臣権限(認可権)は最上級の処分であって、誰にも覆すことはできない。内閣府総理大臣といへども、法的にはひっくり返せないはずだろう。
普通の行政手続に関する処分を不満に思う場合、まず考えられるのが行政手続法に基づく不利益処分などに関する手続き、それから行政不服審査法に基づく手続き、それもなければ行政事件訴訟法による手続き、という風になり、その他としては損害賠償請求訴訟とかがあるのでは。
聴聞とか行政不服審査等でカタのつかない処分ならば、行政訴訟ということを想定するのではないかな。なので、当方は前2者が該当するかどうか、というのをまず考えてみたわけである。記者氏がそれをしなかったことの理由が、全く不明だ。記者氏に指南した人も、である。


本題は、次の3名の見解の相違についてである。


・阿部泰隆弁護士(神戸大名誉教授):裁量権逸脱、敗訴明白と指摘
・新藤宗幸(千葉大名誉教授):認可権は大臣、法的責任問うのは困難、判決まで長期間
・山口利紹弁護士:裁量権濫用の法的根拠(事実と構成)が不明、取消訴訟なんかではスタート地点に戻るだけ


疑問を述べたのは、新藤名誉教授と山口弁護士である。
彼らは何故、そうした見解を主張したのであろうか。法曹界とか、法学の世界では、これくらいは常識的な疑義ということなのだろうか。当方のような法学素人には全く判りかねるが、法的責任を問うのが困難とか、法的根拠となす事実と構成が全く不明、といった主張をするということになると、これはもう法解釈上とか訴訟手続き上で「根本から相反する意見」の対立というふうにしか見ることができない。


喩えて言うなら、次のようなことである。
甲と乙は「速度違反」で見解は一致、ただし甲は「10キロオーバーだ」と言い、乙は「いやいや20キロオーバーだ」と主張して、違反速度と点数の取扱に差異が存在するということがあるかもしれない。
ところが、上記3名においては、まず「速度違反」という共通見解部分からして、全く一致しない、ということである。それくらい全然違った解釈を言っている、ということだ。甲は「速度違反だ」と言い、乙が「いや、違反ではない」と主張している場合、それらは法学的にどう評価すべきか、ということである。


普通に考えれば、どちらかは全くの無知で間違ったことを言っている、ということであろう。残りの一方は妥当だろうな、と。訴訟であると、代理人たる弁護士は自分で考える結論と違っていても、依頼人の言い分を主張せねばならない、ということはあるから、普通に考えればこうだろうなと思うことでも、その意に反して間違っているんじゃないかなと思うようなことも言わねばならない、ということなのかもしれない。

それにしても、専門家に尋ねて全く違った見解が出されるというのは、単なる間違いや勘違いや無知から生じているのではないか、という疑問がぬぐえない。「何となく思いつきを言ってみただけ」という程度のことであるなら、法の専門家という肩書の人たちのレベルが疑われ、その信頼性が乏しいね、と思うよりない。


常識的に考えて、文部科学省の官僚たちが急に態度を変えて、田中大臣に翻意させたのは、法的問題があったからとしか思えないわけだが。法的に何ら問題がない、という確たる根拠があったのなら、大臣権限だからということで突っぱねたはずだろう。官僚たちは絶対に自分の間違いを認めない、という究極のアホな習性を幾度となく目にしてきたように記憶しているが、そういうのからすると不認可と言ったもの(申請者の学校側には局長が電話でそう伝えてしまったらしい)を、簡単に引っ込めるなどというのは普通では考え難いから。まあ、この場合であると、「大臣がそう言ったから」ということで、官僚自身には傷がつかないからこそ不認可から認可へと変更したのだろう。


従って、霞が関での法的見解としても「不認可処分」はマズい=違法認定の可能性が高い、ということを自覚した為に、僅か数時間で認可へと急転直下の判断変更が行われたとしか思えない。
午前には「新基準でやる」と委員会でも答弁しておきながら、午後に内容を変更する理由がない。


法曹、行政法の学者、霞が関官僚、といった専門の人たちが揃っていながらにして、当初から法的問題点を指摘してこなかったことに甚だ疑問を感じるわけである。当方にとっても、山口氏の記事が目に留まらなければ、ブログ記事には書いたりしなかっただろう。しかも、専門家という立場の人間が、全然違うことを言うのもどうかと思う。もっと常識的に考えて、ある程度の統一性が得られるくらいのレベルにはならないものなのか。

これでは、弁護士が余っている現実は「当然かもね」と思わざるを得ないような気もする。素人程度でしかないなら、専門性の意味がない。