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吉川洋東大教授の『デフレーション』について〜まとめ

少し間が空いてしまいましたが、まとめを兼ねて書いておきたい。
丁度、月曜の讀賣朝刊に吉川洋先生の論説が載っていて、どうも財政再建を強調するきらいがあるものだった。

件の吉川本は一応全部読んでみました。
一番言いたいこと、政策提言といったことについては、必ずしも吉川の意見と一致するものではないが、山形浩生が「トンデモ本」と全否定するほどのダメ本だとは思わなかった。意見の近い部分がそれなりにあったから、だろう。

これまでの記事:

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/95a768efa153ef4e66e04cb3eb323e45
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/f29f95d2e29a5efefa5de93a65b88ae3
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/b485761e87c5f5c9ff2341021ada6057
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/f435ba9d20aa15402941121dec1128ec
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/bbe7dce3e7423f89eea7c2966330ac53
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/09923abd9aa96ec7f2bceaf222260de9
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/48f81f23d8482f38d8316774737a6d82


山形浩生からのコメント:

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/dca1c41877ee493600a1ccb477e15206


山形としては、どうもクルーグマン論説の批判が許せないというスタンスなのではないかと思うが、吉川の批判はそう見当外れとは思わなかった。
焦点の貨幣数量説にしても、貨幣数量説からは「日本のデフレ」現象をうまく説明することができない、ということは、ほぼ確定的であろう。そんなに単純な理屈で説明可能ということならば、対応策も単純で効果が確認し易いはずだろう。

クルーグマンのモデルにしても、論文から言えることは「かなり限られている」「判ることは極めて少ない」ということだ。それは、日本の現実の経済状態(状況)にうまく適合しており、問題解決の方法がきっちりはじき出せる、というほどの「説明力」のあるものではなく、決定版でもない、ということ。
吉川の批判は、そこを衝いているだけであり、山形はそれを「批判の仕方としておかしい」というようなことを言っているように見える。当方からすると、吉川の批判は別に「トンデモだ」とは思わない。
実際に、クルーグマン論文が出されて以降も、「現実の解法」について具体的に示した人間は、経済学者かエコノミスト等実務関係者も含めて、一体誰がいたであろうか?

判ることは、「インフレ・ターゲットをやれ」と「カネを刷れ」くらいだったのでは?
しかも、どうしてそれで物価が上がるんだ、と何度も何度もツッコまれてきたのに、リフレ派経済学者の誰もそのことを学術的に立証なり学術論文で説明してきた人間など、誰一人として存在してこなかったのではないか?

要するに、リフレ派側の人間の言い分としては、その程度のものでしかなかった、ということであり、経済学の理屈からは未だ「誰にもうまく説明できていない」というだけに過ぎないとしか、当方には思われないわけだ。
そういう点で言えば、リフレ派もリフレ批判派も同レベルでの争いでしかないのかもしれない。

だからこそ、当方が言ってきた方法については、「実験だ」というわけである。
そして、貨幣数量説をいくら知っていても、それで何かが正確に判るようになるわけではない、ということ。

比喩は良くない、と散々言われてきたが、改めて喩えで説明したい。

過去記事中で何度も用いてきた通り、お金の流れというのは人体の循環系と似ているイメージなのである。で、量的緩和策なんかは、「輸液」に近いものだ、ということも説明してきたわけだ。

輸液というのは、ヴォリュームを増やす・維持するのには役立つけれども、それで心臓の病気が治せるとかそういうものではない。しかも、今、200ml輸液したら、10分後には血圧がいくら上がりますor何%上昇します、みたいに、正確に何かが判るわけではない、ということだ。

循環血液量が減少すると血圧は低下する、ということが生理学的知識として、判っているというだけである。だから、輸液をせずにいたら血液量が減少してしまって、血圧が下がる、という現象が実際に起こるかもしれない、ということが考え方として判るということだ。
輸液しないより、した方がよい、ということは、そうしたいくつかの理由が存在するので、現実に「やるべき」という判断に繋がるわけである。

それは貨幣数量説のような「正確性」が必ずしも反映されるものではなく、インフレになるには「貨幣量を増やした方がよい」という考え方につながる、というだけである。
輸液量は目安とかある実施基準のようなものは存在するけれども、数式計算からある瞬間の血圧とか血液量が正確に判るようになるものでもなければ、数分後の血圧が数値として判るようになるものでもない、というのと似ているということ。


貨幣数量説は、過去の経験則にほぼ合致しやすい、ということはあるけれども、あの式から正確に何かが言えるというほどのシロモノではないだろう。いや、正しいんだ、正確なんだ、ということを主張するなら、学術的に論文で証明すればいいのである。それは、当方の仕事ではない。経済学者の仕事だ。


追加です(19時頃):

吉川先生の言い分にも疑問点はないわけではない。
読売記事でもそうだったが、財政再建を求め過ぎかと思う。また、イノベーションを強調するわけだが、これも山形が指摘するように「何があるの?」というところに行く着くわけである。最近の話題の「クールジャパン」とかみたいな、霞ヶ関商法というべき産業政策になったりするわけだ。確かに期待薄かもしれない。吉川先生の場合、昔から供給サイドの政策を重視する嫌いがあったわけである。その傾向は今でも続いている、ということなのかもしれない。


吉川先生にしてみれば、幕末あたりの藩札を乱発して、高インフレを招いたような「ダメダメ統治」が許せないというか、認められない、ということなのかもしれない。
政策のセンス悪いし、財政規律もユルユルの、イノベーションのかけらすら見られないような政治体がインフレを実現してしまうことを認めてしまうと、「これまでのオレの研究や主張は何だったのか」と自分を否定することにつながりかねないので、それを許すことができないのかもしれない(笑)。


イノベーションという点で言えば、日本のこの15年はまさしく「イノベーションの賜物」ということだったのではないか、と。

日本が陥ったデフレというのは、引き起こされた「ショック療法」でおかしくなった体を、何とか持たせようとして全国民が必死で頑張った結果、ということ。普通の外国であると、「そんなことできねーよ」で終わりなようなことが、日本人の真面目気質で死に物狂いで取り組んだ結果だ、ということ。


何処かにムダはないか、削れる経費はないか、ということで、総力を挙げて取り組んできた結果なのだ。民主党で有名になった「事業仕分け」みたいなのを、全企業活動レベルでやったのだ、ということ。その結果として、労働者の賃金は下がったわけだが、各家庭レベルでも同じく「仕分け」が行われた、ということだ。


また喩えで申し訳ないが、昔の宮廷の仕事みたいなものかも。
服を着せる係、脱がせる係、顔を洗う係、髪を整える係、…何があるか判らないが、そういうモロモロの係が存在してきたものを、「いらないんじゃね?」とハタと気づいて、係を大幅削減してしまうと、ムダが削れる、ということになるわけである。


過去の経緯というか、歴史的に何らかの理由があって存続してきたものであっても、ムダだから手っ取り早くなくせばいいんじゃないかな、ということで、改革を断行した結果、ムダが大幅に取り除かれてきた、というわけである。これに類することを、ありとあらゆる部門、分野で行ってきた結果、「乾いた雑巾」と呼ばれるまでの状態を達成できた、ということだ。



これは、ある意味において、日本国民の総力を挙げた「イノベーション」=技術革新、ということだ。3人でやってた仕事も、「2人でできますね」、いやいやもっと見直せば「1人でもできます!」ということで、マジ「凄い仕事術」を達成してきた、というわけですわ。お中元、お歳暮、みたいなものが、あっさりと廃止された、というようなことが、よい例では。結果としてデパート売上が落ち込む、みたいなことが連鎖的に起こり、それでデフレの歯車を回す、みたいなことだ。それは世の中を回りまわって、自分の給料にも跳ね返ってきた、と。


多分、他の国とかだったら、ここまでは達成できないんじゃないかと思うし、耐えられないだろうと思う。そんなことに、真面目に国民を挙げて取り組むというのが、多分起こらないだろうと思うから。バカバカしくてやってらない、ということで、普通はあっさりとギブアップするはずですもん。日本の達成してきた「デフレ」というのは、そういう点において誇るべき「イノベーション」の結果である、ということかもしれません。


日本が取り戻すべきは、プライドと権威のようなものなのかもしれません。

それは、例えば「掃除係がムダなので、社長が便所掃除をします」、じゃなくて、どんなに「自分がやった方が綺麗で早く上手にできる」と分かっているとしても、「掃除係にやってもらう」ということを「我慢して受け入れる」ということ。どんなに才能や能力があっても、監督とコーチと選手をたった1人で兼任したりすると、その人の負担が猛烈重くなる上に、雇用が減るわけである。そんなことをするくらいなら、選手にはプレーに専念してもらって、勝つことに集中してもらった方が結果的には良いのではないか、ということだ。



日本に最も必要なことは、「勝つ為に戦う人」がそのことに専念できる状況にすること、その他の雑務とかマネジメントとかモロモロのことは、サポート部隊を貼り付けてやってもらった方がよい、ということである。


参考記事>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/869d46495802d5c3b8e25cfb790a02f6



女性の仕事と子育て問題にしても、ほぼ同じ。
仕事もやって、子育てもやって、という、一人何役も、求め過ぎなのではないか。

スーパーウーマンじゃないんだから、妻も母も企業戦士も、なんて、難しいんだよ。
どれか一つに特化して、やることがそんなに悪いことなのか?


話が逸れたが、吉川教授の出した増税イノベーションという解法が「望ましい、大賛成」とはならない、ということだ。