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高浜原発運転差止仮処分〜大津地裁決定

まだ決定文書を読んでいないのだが、報道から感じたことをとりあえず書く。時間がある時に、大津地裁決定を読んで考えてみたい。


これまでのなし崩し的再稼働に対し、裁判所が問題点の指摘をした決定であったと思う。報道からすると、恐らく(関電側が)説明義務を果たしているとは言えない、という考え方なのではないかな、と思う。
政権の顔色を窺うことなく、差止め決定を出した裁判所の勇気を高く評価したい。


さて、今朝の読売新聞には、大津地裁決定についての論説が掲載されていた。論者は、遠藤典子慶大特任教授、近藤恵嗣弁護士(工学博士)、升田純・中大法科大学院教授の3名だった。

当方の理解をかいつまんで言えば、遠藤氏は原発稼働のハードルは上がっているが経済性も留意せよ、ということで地裁決定についての言及はほぼ回避されていた。近藤氏は、「事故は起こらない」「そんなに揺れない(から壊れない)」というような立証に終始することより、万が一事故が発生したとしても「対策で被害は及ばない」という方向に転換するべきではないか、という現実的な意見を述べていた。

両氏の言いたいことは分かるし、原発行政の一般的なことなので的外れということでもないと思われた。そういう考え方は考慮に値しますね、とは思った(上から目線っぽい言い草で失礼)。だが、升田氏はかなり厳しい裁判所批判を展開しており、見出しも「結論ありきの決定 疑問」とする刺戟的なものだった。


そこで、升田教授の論説について一部紹介し、拙ブログの感想などを述べたい。


『一つは、立証責任の所在が関西電力にあるとした上で、…(中略)
しかし、伊方訴訟が正式裁判だったのに対し、今回は仮処分だ。正式裁判で求められる「証明」よりも簡易な「疎明」で足りるはずで、提出できる証拠も限られる。にもかかわらず、争点となった過酷事故対策については、裁判所として関電が行うべき安全対策の基準を示さないまま、「主張及び疎明が不十分な状態」だと断じている。これでは関電がどうしていいのかわからないだろう。伊方判決の趣旨をはき違えているように思える。』


升田教授の言い分は、こうだ。
ア)簡単な疎明で足りる
イ)裁判所が安全対策基準を示さないから関電はどうしていいか分からない
ウ)伊方判決趣旨をはき違えている

まずイ)だが、裁判所は安全対策基準を具体的に作り出すことなどできない。行政の仕事であり、基準を裁判所が示す義務など存在しない。安全対策は、基本的には規制庁と事業者の提出する資料に基づき、普通は(これまでは)こうするんだなと分かるだけである。
例えば医療であれば、学会基準のような具体的指針、教科書、成書、論文、海外との比較、等で判断されるだろう。裁判所が求めるレベルはどの程度か、は、これら客観的提示資料(=当事者意見に左右されない)から総合的に判断されるだろう。

だとすると、関電はこれに類する提示資料をきちんと裁判所に示せたのか?この点において、不十分だと指摘されたものと思う。
仮に、人が「病気X」で死亡しました、というエピソードがあったとしよう。裁判官が「患者さんはどうして死んだんですか?」「原因は何ですか?」「病気Xの治療法はどうなっていますか?」「次に同じ患者さんが出た時は、どのように治療できますか?」と具体的に尋ねているのに、「私は医師国家試験に合格したので、きっと治療できます」としか言われなければ、どう判断できるのか、ということだ。

裁判官の仕事は、病気Xの治療法だの診断基準だのを「生み出す」ことなどではない。まず高い専門性の分野を担っている側(例えば医師とか、原発事業者とか、行政庁とか)がきちんと説明・資料提示を行った上で、このような治療なり対処なり判断なりの根拠がこれこれこうなので、「現状では自分の主張が正しいと言える」と明示できるはずだ、ということ。その意見の妥当性なり合理性なりを裁判所が判断するのだから。


関電の言い分程度では、裁判所の判断の前提となる「きちんと説明・資料提示」ができていない、ということであり、それを裁判所に指摘されたと考えられるのである。升田教授がいう「関電はどうしていいか分からない」なら、裁判所はもっとどうしていいか分からない、というだけである。
高い専門性を持つ側がきちんと説明できてないなら、裁判所を説得できるはずもなく、主張を判断してもらうことなどできまい。升田教授の裁判所が安全対策基準を示せという要求は、無謀のように思われる。


次を見てみよう。

『二つ目は、検討内容の乏しさだ。福井地裁が昨年12月、高浜原発3、4号機の再稼働を認めた保全異議審の決定書は、200ページを超えていたが、今回は3分の1以下しかなく、提出された証拠を十分検討したのかという疑問さえ抱かせる。一つ一つの争点に対して、抽象的な事実を列挙した上で、「説明が足りない」の一言で片づけてしまっている。』


また升田教授の言い分を列挙する。
エ)福井地裁決定書は200頁超なのに今回は70頁以下
オ)提出証拠の検討に疑問
カ)抽象的事実で「説明が足りない」と片づけている


ページ数が多けりゃいいというものではない。そんなことを言うなら、国が提出した辺野古代執行訴訟の準備書面は、900ページ超だったとからしいが、これを壮大な無駄と呼ぶのではなかろうか。どんなに無理無駄な主張を連ね、虚飾を重ねようとも、間違ってるものは根本から間違っているのだ。しかも、間違いの理由を説明するのに何百ページも要するわけでなく、比較的少量であっても適確に間違いを言うことはできる、というのが重要なポイントなのである。

抽象的事実で足りないと片付けてるかどうかは、決定書を読んでないので分からない。過去の福島原発事故の原因究明・検証・説明などからすると、事故防止という観点から正確・妥当な意見が出された形跡などどこにもない。加えて、過酷事故発生時には、誰が責任を持てるのか、本当にきちんと対処できる人間が存在してるのか、それすらも不明のままである。


升田教授にしてみると、疎明は簡単でよいが、裁判所は数百ページにも及ぶ決定書―まるで本裁判の判決文のような―を書け、と要求するのは当然、ということであろう。分量の多寡ではなく、考え方や判断の適切さを見るべきなのであり、思考方法が間違っていれば、無駄な資料をいくら添付した所で意味などないということを知るべきである。


因みに、無駄にページ数が多いというのは、代執行訴訟の準備書面に限らない。東電の事故調査報告書も、矢鱈とページ数が多くて確か900ページくらいあったわけだが、その多くは「何ら役に立たないもの」が並べられており、事故の真相に迫れる資料などごくごく限られていた。

彼らに共通する傾向があるだろう。官僚主義的であること、責任逃れに終始すること、要点をボカして煙に巻こうとすること、などである。理由は簡単。何を言っているのか、分かり易く「理解させない」為、だ。
専門用語などを並べ立ててしまえば、相手は何を言っているのか分からなくなる、ということにできるから、だ。件の福井地裁の決定書も同じく、事業者側主張を単になぞるだけの空疎な内容であった。


本当に重要な核心部分というのは、できるだけ簡潔明瞭に説明しようと心がけるものだ。それは、相手を説得しようと努力するからだ。この欠如が東電であり、関電であり、九電他の原子力事業者、ということである。

自動車の速度が時速60kmだと、どのような物理的エネルギーを有するか、自動車の挙動はどうなるか、等といったことを平板に並べ続けたって、事故原因を探ることにもならないし、運転者の過失の有無の判断にも至らない。問題なのは、運転者がどのように注意して運転していたか、どういう行動なり操作を行ったのか、という点である。対策を考える、とはそういうことであるはずだ。


これまでの原子力事業者の主張から見て、日本で原発運転を任せられる事業者というのは、本当に存在するのかと問われたら、否と言わざるを得ないというのが率直なところである。この危惧を認めてもらったのが、今回の大津地裁の決定だったものと思う。


※※11日追記:

昨夜、決定書全文を読んでみました。
報道から推測されたように、関電側の説明なり資料提示がまこと不十分である、ということが分かりました。それは、建設前にやった設置申請の書類提出程度であって、福島原発事故を受けての対策として調査研究した資料というレベルにはない、というものであろうと思われました。

大丈夫だ、と宣言する側が、どう大丈夫なのかをきちんと言えておらず、その大丈夫だと言ってる根拠も曖昧なのではないですか、と指摘されているものということです。