怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

憲法9条に関する私見〜2

続きです。


今回の重要な論点の一つが、政府が憲法解釈を変更することができるのか、という点でしょう。


現在までの日本の政治体制で考えると、憲法その他法令解釈の変更はできるものと思われます。ただし、そこには無条件にどのような解釈も或は解釈変更も認められるということではないでしょう。

昨日取り上げた答弁書中にもあった通り、『憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきもの』であって、『国内外の情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に法令の解釈を変更することができるという性質のものではない』。
『中でも、憲法は、我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については、過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならない』とするのが、従前の政府見解であり、当方もそのように考えるべきであると思います。


例えば最高裁判例についてみれば、時代の変化に応じて判例変更がなされるということはあり得るし、現実にそうした判例変更が行われてきました。かつては合法だったものが違法とか、その逆もあるとはどういうことなんだ、と。法が永遠に変化しないものでない、ということでしょう。ただ、変更の瞬間というのはあるわけで、その際の逆転現象のようなものは、非常に大きな変化と見えるでしょう。
そうであるが故に、大法廷での判例変更ということになりますし、変更に至った理由や論理について、最高裁が説明を尽くすわけです。その議論の過程や検討課題も含めて、裁判官の補足意見も全部付けて示されるわけです。


そういった「変更」の根拠、理由、必要性などを、過程も含めて説明しないと、多くの人は納得・理解できないからですね。ですから、法解釈が変更されうる、というのは当然のことでもありますし、憲法解釈変更が決して許されないというものではないということです。


元々、拙ブログでは最高裁判決についてでさえ、数々の批判をしてきました。裏を返せば、最高裁判決が司法判断の最終解であるということは認めてはいるものの、その論理には批判されるべき点は多々あると思っているし、当方から見て妥当性が必ずしも高いとは思えないものもあると考えているということです。例えば、以下のような記事です。


最高裁判決への批判した記事

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/509b563a19d8666854674bfce8baacab

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7ba6028750bbe31e7bb3c5a609ca3bbd

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/5680abe732d9633c5570a5bbee445caa


なので、最高裁がこう言ったから正しいと自分も考える、という単純なものではありません。最高裁に対してでさえ、こうなのですから、これが行政府の行う法令解釈について、全幅の信頼を置いているかというと、そうとは限らないでしょう。対立見解を支持することも多々あります。


そうであるなら、どうして従前の政府見解を採用するのか、という非難があるかもしれません。最高裁だけじゃなく行政府の法令解釈を信頼していない人間が、集団的自衛権行使は違憲であるとする従来説を信じるのはおかしいのではないか、と。

確かに、そうかもしれません。
が、当方からの評価は、そうならざるを得ないということなのです。


最高裁自衛隊の存在や集団的自衛権行使が合憲か否かについて、判決を出せるということは現実的ではありません。ブランダイス・ルールのような原則が全く無視されてよいということでもないわけです。即ち、司法判断を仰げる機会は、殆ど無きに等しいということです。ならば、どうしたらよいのだろうか。


政府が提示する法令解釈と国権の最高機関たる国会での議論を、ある程度重視するよりないわけです。それが内閣法制局答弁書に示された内容ということでもあります。また、砂川事件の判決で述べられた『終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきもの』ということになるわけです。


在日米軍違憲や否や、という論点に限らず、政治全般については、そのように考えざるを得ないということです。国民の批判、これしかないのだということになるわけです。


これは、最高裁判決についても同じであると考えます。
つまりは、法令解釈、憲法解釈というものは、主権者の国民からの批判に耐えうるものでなければならず、批判を仰ぐ上では判例変更のような「明示的に議論の全てが説明される」必要があるということです。政府の解釈変更でも同様でありましょう。


そして、今回のような憲法解釈変更によって大きな変化がもたらされるであろうと、国民が考えるのであれば、手続としては「憲法改正」か、より説得的な議論や説明がなされて当然であるということです。憲法改正に匹敵するような変化なのかどうか、その重要度についての評価は、あくまで主権者たる国民が決めるべきことなのです。

総理が「この変更は大したものでない」とか、与党議員が「変更は許される、お前ら大衆はよくわかってないだけなんだ」とか、変化の大きさや重要度を国民の意見を無視して自分勝手に決めてよいというものではないはずです。この変更は重大だと多くの国民が考える以上、政府が「いやいや大した変更ではない」と否定できるものではないということです。


9条の解釈問題については、過去の国会での議論の積み重ねが長く、言ってみれば長期に渡り政治的批判に耐えてきた中で作り上げられてきた考え方です。洗練されているかどうかわかりませんが、鍛錬されてきたというようなことです。

政府見解は、警察予備隊から自衛隊に至る変遷も勿論あったですし、主権回復前後での議論も国際情勢が変化する中での議論により、若干の変更は行われてきたものです。そうではあるけれども、大多数の国民がその変更範囲については、政治的に認めてきたということでもあり、国民の許容する範囲内での政府の行動であったと言えなくもないわけです。


ところが、今回については、必ずしもそうではないかもしれない。国民が許容できる範囲であるとは思ってないようだ、と。
そのことは、今後の歴史が示すことになるのでしょう。