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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

憲法9条に関する私見〜1

いよいよ戦争法案の強行採決ないし衆院再議決が近づいていることであろう。現状のままであれば、国会で多数を占めるのは安倍支持派であろうから、成立は時間の問題ということになろう。これに対する抵抗手段となると、国民側からすればかなり限定的ということになろう。

ところで、政府案支持者たちからは、具体的合憲説の提示が少ないわけであるが、違憲説への批判が未だ止まないようだ。基本的には、日弁連の意見書で殆どの説明は出ているのであるから、政府案支持者たちが反論文書を提出すれば済む話である。

日弁連意見書
http://www.nichibenren.or.jp/library/ja/opinion/report/data/2015/opinion_150618.pdf


参考になるものとして、政府与党の想定している集団的自衛権行使の具体的事例というのは、次のような国会審議で示されている。

https://www.jimin.jp/activity/colum/128047.html
小野寺議員の質疑である。

邦人救出・輸送中の米艦防護
『多数の日本人を退避させるために、アメリカ軍の輸送船などを共同でお願いし、輸送することになります。このことは、日米の防衛協力ガイドラインにも規定があります。これにより、米軍の輸送艦が日本人を含めた市民を輸送して、我が国に退避させることになります。』

『まだ日本が攻撃されていないという時点で、日本人を助けるために自衛隊の船が公海上において武力を行使したら、この行為は国際法上どのように判断をされるか、外務大臣にお伺いしたいと思います。』

岸田文雄外務大臣
『ただいま委員が示された例、すなわち、我が国への武力攻撃がない場合に、在留邦人を輸送している米艦艇が武力攻撃を受け、そして同艦艇を我が国が防護すること、こうした行為は、国際法上、集団的自衛権の行使に該当すると考えられます。』


『もし、この自衛隊の宿営地の隣に位置する国連の事務所、NGOの事務所が武力集団に襲われた場合、そして、この国連の職員から、日本の自衛隊、助けてくれ、そのような要請があった場合、これは現実に起こり得ることだと思います。この場合、自衛隊員は武器を使用してこの国連職員を守ることができるのか、現行法制でできるのかどうかを防衛大臣に伺いたいと思います。』

(中谷防衛大臣
『PKO活動というのは国連が実施をする平和維持活動でありまして、日本の自衛隊も二十年以上、この活動を実施してまいりました。小野寺大臣も現地の視察をされましたけれども、現行法では、御指摘のように、ともに現場に所在をしない国連の職員、またPKO活動に従事する者などから救援の要請を受けても、自衛隊が武器を使用してこれらの者を守ることができません。』

以前に拙ブログでも述べたが、想定事例がおかしいのであるが、そうであっても、必ずしも不可能なものでもないし、現行法においても例えばPKOでの自己の管理の下に入った者の生命・身体の防衛の為の武器使用は認められ得る。現場における「自己の管理の下」が、実際上不動であることの方がおかしい。こうした低レベルの議論は検討に値しないので、今はおいておく。


で、小倉弁護士のツイートを見てたら、次のようなものに遭遇した。

https://twitter.com/kamatatylaw/status/643322507756335104

自衛隊合憲、集団的自衛権行使違憲憲法の文言で基礎づけるのはネッシーを探すよりむつかしい


なるほど、現役の弁護士さんが従前の政府見解について、納得できない様子ということですか。今までの日本の政府、国会、与党政治家等々というのは、みんなしてネッシーネッシーだと信じ込んできたのだ、と宣言しているに等しいですな。

当方は、「自衛隊合憲+集団的自衛権行使違憲」説を採用しており、これについての私見を述べておくことにする。というか、ほぼ過去の政府見解そのまんまというものですが。
憲法議論に関しては、現行の日本国憲法が制定されて以降、幾多の書物や議論が出ており、諸説あるのは勿論のこと、それぞれの流派?からの批判合戦となっていることは、凡そ理解している。それらの批判全部に耐えうる意見が出せるものではないが、現状での当方の理解として述べておくものである。



まず、自衛隊合憲、これについては後日細かく述べることとするが、基本的な路線としては、
・個別的自衛権保有は否定されてない
・必要最小限度の実力組織≠戦力
・過去の非自民政権でも廃止されてない
である。
言いたいことは、もうちょっとあるので、別記事で。


【参考例】2010年4月22日 政府答弁書

憲法第九条第二項は「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁止しているが、これは、自衛のための必要最小限度を超える実力を保持することを禁止する趣旨のものであると解している。自衛隊は、我が国を防衛するための必要最小限度の実力組織であるから、同項で保持することが禁止されている「陸海空軍その他の戦力」には当たらない



次に、集団的自衛権違憲性についての議論である。ここが、若干厄介ではある。
集団的自衛権が否定される理由は、政府見解では次のようになっていた。


1972年10月14日 参院 政府提出資料

平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであって、それは、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行うことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない



それ以前の国会での議論や政府答弁においても、似たようなものが積み重なってきたわけであり、これ以後についても同様である。
9条2項の戦力、この部分は既に自衛隊合憲と述べた。


残りの「国の交戦権は、これを認めない。」であるが、この解釈がどうなのかということになる。


交戦権についての政府見解は次の通り。

【参考例】1985年9月27日 政府答弁書
憲法第九条第二項の「交戦権」とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であつて、このような意味の交戦権が否認されていると解している


憲法上の「交戦権」は、英語文献での表記が

 the right of belligerency of the state

だったそうです。
一般的な国際法であれば、
 belligerent right   または
 right of belligerent
というのが普通のようです。

恐らく、日本国憲法制定時での考え方というのは、従来からある「交戦国」と「交戦権」という定義か概念とは、若干異なるものであるということが認識されていたのかもしれません。日本の帝国議会議員たちがそう考えていたかどうかは、分かりませんが。


話がズレますが、諸外国の軍隊には、いわゆる交戦規定(ROE)というものがあります。
rules of engagement です。
これにはいくつかの段階があって、個人レベル、部隊レベル、国家レベルといった具合に、細かく規定があるのだそうです。
日本の憲法に言う交戦権は、これとは厳密には異なるわけですが、単なる「ことば」としての「交戦する権利ないし権限」を想像してしまうと、憲法解釈ができなくなるのではないかと思われます。

日本の憲法が禁じているのは、「国の交戦権」です。すなわちROEでの考え方に似て、自衛隊の構成員たる個人に対しては、別の観点からの検討がなされるべきではないか、ということが考えられます。端的に言えば、個人の自己防衛・自己保存的な権利、というようなことです。これは否定されていない、と考えるべきかと。

同時に、政府答弁にある通り、「国の交戦権」が国際法上では一般的に認められるであろう、国家が主張できる法的地位や権利というものが、日本の場合には「全部を無条件に肯定・認めているものではない」ということです。それが、2項後半の、「国の交戦権は、これを認めない」ということの意味合いではなかろうか、ということです。


そうすると、憲法上では、自衛権について、個別的と集団的の明文での区分がなされていないわけですが、少なくとも、日本の場合には「交戦国が保有するであろう国際法上の権利」が無条件には認められていない、ということですから、「100%のフルスペックでの自衛権行使」が具備されていると解することはできない、ということです。

では、その制限はどこにあるのか?範囲の限界はどう見るべきか?
極端に言うならば、0%だという主張もあり得るでしょう。その場合、一切の交戦が不可ということになります。無防備宣言とかノーガードということです。打たれるがまま、と。

しかしながら、国の交戦権が不可であっても、個人レベルではどうなのか?これが民衆蜂起といった水準に該当するものではないのか?
では、部隊(小集団)なら?
独立闘争の武装集団は、交戦団体として認められるでしょう。民族自決主義に倣えば、交戦権が必ずしも否定されていないのではないかと。更に、国の交戦権が個別的自衛権だけ容認されている(全体の何%と言うべきかは不明ですが)と解釈することはできるでしょう。
砂川判決でも、国家としての自衛は肯定されているものです。


つまり、2項でいう「国の交戦権」とは、その名の通りに、
  the right of belligerency of the state
であり、日本が本来国家として有するであろう国際法上の権利行使については、使えないように凍結されているというようなものです。

具体的に言えば、臨検、拿捕、占領、港湾や海上封鎖、軍政等々が「認められない(=国際法上の権利はあるが、凍結されていて使えない)」ということでしょう。


よって、専ら自国の防衛の為に実力行使をすることは、自己保存的権利として認容されている(個別的自衛権)としても、それを超える武力行使は認められないと解するべきでしょう。従前の政府見解で言うところの必要最小限度を超えている、と。他国防衛たる集団的自衛権は、認め難いでしょう。


侵略の定義に関する決議の3条(g)は次のようになっています。

上記の諸行為に相当する重大性を有する武力行為を他国に対して実行する武装した集団、団体、不正規兵又は傭兵の国家による若しくは国家のための派遣、又はかかる行為に対する国家の実質的関与


日本の領域外で日本が行う武力行使が侵略行為に該当する可能性が出てくる、ということになります。集団的自衛権行使であると日本が主張・宣言したとしても、法的評価が侵略行為に該当する可能性があるような行為については、政策として取り得るものではないでしょう。


最後に、従前の政府見解がよく分かる答弁書を挙げておきたいと思います。


衆議院議員伊藤英成君提出内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書

内閣衆質一五六第一一九号
  平成十五年七月十五日


一及び三について
 お尋ねの「政府の統一解釈・統一見解」とは、憲法を始めとする法令の解釈に関する政府の見解を指すものと考えられるところ、一般的に、憲法を始めとする法令の解釈は、当該法令の規定の文言、趣旨等に即しつつ、立案者の意図や立案の背景となる社会情勢等を考慮し、また、議論の積み重ねのあるものについては全体の整合性を保つことにも留意して論理的に確定されるべきものである。政府による法令の解釈は、このような考え方に基づき、それぞれ論理的な追求の結果として示されてきたものであり、御指摘のような国内外の情勢の変化とそれから生ずる新たな要請を考慮すべきことは当然であるとしても、なお、前記のような考え方を離れて政府が自由に法令の解釈を変更することができるという性質のものではないと考えられる。中でも、憲法は、我が国の法秩序の根幹であり、特に憲法第九条については、過去五十年余にわたる国会での議論の積み重ねがあるので、その解釈の変更については十分に慎重でなければならないと考える。
 行政府としての憲法解釈は最終的に内閣の責任において行うものであるが、内閣法制局は、内閣法制局設置法(昭和二十七年法律第二百五十二号)に基づき、「閣議に附される法律案、政令案及び条約案を審査し、これに意見を附し、及び所要の修正を加えて、内閣に上申すること」、「法律問題に関し内閣並びに内閣総理大臣及び各省大臣に対し意見を述べること」等を所掌事務として内閣に置かれた機関であり、行政府による行政権の行使について、憲法を始めとする法令の解釈の一貫性や論理的整合性を保つとともに、法律による行政を確保する観点から、内閣等に対し意見を述べるなどしてきたものである。
 なお、御指摘の「武力行使との一体化」論とは、仮に自らは直接「武力の行使」をしていないとしても、他の者が行う「武力の行使」への関与の密接性等から、我が国も「武力の行使」をしたとの法的評価を受ける場合があり得るとするものであり、いわば憲法上の判断に関する当然の事理を述べたものである。これは、我が国の憲法が欧米諸国に例を見ない戦争の放棄等に関する第九条の規定を有することから生まれる解釈であり、「独りよがりの解釈となっている」との御指摘は当たらないと考える。
二の1及び4のアについて
 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。
 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。
二の2のアについて
 我が国に対する武力攻撃が発生しこれを排除するため他に適当な手段がない場合に認められる必要最小限度の実力行使の具体的限度は、当該武力攻撃の規模、態様等に応ずるものであり、一概に述べることは困難である。
 憲法第九条の下で保持することが許容される「自衛のための必要最小限度の実力」の具体的な限度については、本来、そのときどきの国際情勢や科学技術等の諸条件によって左右される相対的な面を有することは否定し得えず、結局は、毎年度の予算等の審議を通じて、国民の代表である国会において判断されるほかないと考える。
 これらはいずれも、解釈によって示された「必要最小限」という規範に対する個別具体の事例の当てはめの問題であり、「内閣法制局は、法令解釈権を放棄した」との御指摘は当たらないと考える。

二の2のイについて
 憲法第九条第一項は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」と規定し、さらに、同条第二項は、「前項の目的を達成するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」と規定している。
 しかしながら、憲法前文で確認している日本国民の平和的生存権憲法十三条が生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を国政上尊重すべきこととしている趣旨を踏まえて考えると、憲法第九条は、外国からの武力攻撃によって国民の生命や身体が危険にさらされるような場合にこれを排除するために必要最小限度の範囲で実力を行使することまでは禁じていないと解され、そのための必要最小限度の実力を保持することも禁じてはいないと解される。
 我が国がこのような自衛のために行う実力の行使及び保持は、前記のように、一見すると実力の行使及び保持の一切を禁じているようにも見える憲法第九条の文言の下において例外的に認められるものである以上、当該急迫不正の事態を排除するために必要であるのみならず、そのための最小限度でもなければならないものであると考える。
二の3について
 「専守防衛」という用語は、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいうものであり、我が国の防衛の基本的な方針である。この用語は、国会における議論の中で累次用いられてきたものと承知している。
 政府は、従来から、「わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、(中略)そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。」(衆議院内閣委員会鳩山内閣総理大臣答弁船田防衛庁長官代読、昭和三十一年二月二十九日)との見解を明らかにしてきており、石破防衛庁長官の平成十五年一月二十四日の衆議院予算委員会における答弁等は、このような従来の見解を繰り返し述べたものである。このような見解と、相手から武力攻撃を受けたとき初めて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめるなど、憲法の精神にのっとった受動的な防衛戦略の姿勢をいう専守防衛の考え方とが、矛盾するとは考えていない。
 前記のように、専守防衛の考え方は憲法の精神にのっとったものであり、政府としては、これを変更することは考えていない。
二の4のイについて
 御指摘の事態については、自衛権発動の三要件が満たされないことから、これに対応するために我が国が自衛権を発動することはできない。
二の4のウについて
 お尋ねは、仮定の事実を前提とするものであるが、一般論として述べると、憲法第九条の下において自衛権の発動としての武力の行使が許されるのは、自衛権発動の三要件が満たされる場合に限られる。