怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

人を動かすのはpassion

生きてきた年代によって、受け止め方が若干変わるかもしれない。

http://b.hatena.ne.jp/entry/blog.livedoor.jp/dankogai/archives/51828694.html


断固ガイ氏の記事を取り上げるのは久々ですが、触発されたので。

丁度『ヒューゴの不思議な発明』をレンタルで観たばかりだったというのもあるかもしれない。特撮のない時代に、当時の人々がどれほど頑張っていたのか、ということが伝わるものだった。映画(映像)への愛と先人たちへの敬意があった。特撮博物館に関わる人々も、そういうのと同じなのではないのかな、と思う。


昔の技術や工夫なんかを知ると、何かの拍子に別なアイディアを生み出すヒントを与えてくれるかもしれない。或いは、自分の知らなかった世界がそこにあって、驚きをもたらすかもしれない。昔の何かを見たり学んだりするというのは、現実世界でも思わぬ効果があるかもしれない。

現代の水準からすると、確かに「ショボい」かもしれない。大抵のことは、そうだ。電算機だってそう。スポーツとか、何かの競技とかもそうかもしれない。


ただ、どの時代であっても、それに情熱を傾ける人々がいて、それが強ければ強い程、人々を惹きつける何かとなってゆくのではないだろうか。古典と呼ばれるものの多くがそうだろう。文学でもそう。音楽とか、その他芸術とかもそう。

映画などの映像技術は、クラッシック音楽みたいなものからすると、まだ歴史が浅い。文学と比べても、全然新種のものでしかない。だから、古典という領域にはまだ到達していないのであろう。今後、もしも人々の興味が失せていくなら、いずれ衰退して消滅することになるだろう。参加人数がどんどん減ってゆくから、人々の記憶から忘れ去られてしてまうことになる。そう、人々の記憶から消えると、興味を持たれることがなくなるので、消滅危機となるのだ。

興味が失せないようにするには、常に参加者を確保し、面白さを伝道したりする人間が必要なのだ。古い映画にしても、その解説をしたり、面白さを伝える人が必要なのだ。薄れそうになる記憶を再び誰かが掘り起こし続けると、それが持続してゆくことになるのだ。
『ヒューゴ〜』の中で登場してきたヴェルヌやウェルズにしても、子供の頃に読んだ経験のある人は多いだろう。それは、古典の定着作業のようなことが行われている、というのと同じ効果を持つ。時代を超えて、その時々の人々に記憶され、ある一定以上の数が維持されれば、次の時代へと引き継がれてゆく、というようなことである。

だから、映画もきっと同じなのではないかな、と思う。オリジナルも大事だし、リメイクなども同じく大事だ。次の時代に引き継ぐには、記憶を残し続けていかねばならないのだから。何が残るかは、人々の興味による。その時代ごとに、人の情熱がどのくらいあるかによる。作品への愛が深ければ、遠くの未来までも伝わる可能性が高まる。


因みに、『ヒューゴ〜』は割と好みの映画だった。時計職人という設定が好ましいというのもあったけれども、ヒューゴが友達の少女に言う「機械には、不必要な部品はない」というのがとても良かった。自分には、きっと何かの役割がある、世の中には必要でない人間なんて、いないんだ、という肯定感がいい。後に本好きの少女が分かったことは、文章を書く、という大役だった。


映画は色んな面で向上してきて、特撮技術も進歩を遂げたが、常にあったのは、ベタなpassionだった。現場でのリアルな汗、最後の最後はガッツと力仕事、みたいなアナログ的世界のはずだ。例の『バトルシップ』で描かれたのは、精密誘導のミサイル全盛にあってなお艦砲射撃という時代遅れの技術と、決定打を与える砲弾は何の妙案もなく「単に人力で運搬」というものだった。特撮博物館や古い映画の撮影現場と似た、しょぼい「前時代的」技術と個々の人間の頑張り、というアナログ全開の「血と汗と涙」への讃歌だ。


いつの時代においても、人々の情熱がある限り、記憶が消えることはないだろう。だが、それが失われないことの保証はないことも事実であり、伝承者たちが存在しなければいずれ消え去ることになるだろう。