怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

正月の『ニッポンのジレンマ』というNHK番組をみた

深夜にやってて最初の方は観てなかったので、全部の議論は分からない。結論から言えば、あまりに残念過ぎる酷い出来栄えだった。


そうなってしまった原因の殆どが、女性論者の選抜ミスだったのではないか。他の男性論者とあまりにベースラインが違い過ぎて議論になっていなかった上に、彼女たちに「日本という国」について語るという意識があまりに稀薄過ぎて、せめてタイトルにある通りに「ニッポン」くらいは議論できるようなレベルが必要だったろう。彼女たちは、その域には達していないとしか思えなかった。


ハリスはまだマシな方で、日本の政治的課題をどう考えるか、ということに意見があったし、簡単に言えば「私のような日米両国籍者のアイデンティティ」という観点からして、うまくマネジメントなりコントロールすれば「日本だってきっとできる」というものだった。まあ、そんなもんだろうな、と。


はあちゅう」という人は、そもそもこうした議論には全く向いてないとしか思えなかった。普段政治に縁遠い人の代表例として参加しているなら、そういう人が「どのように考えるか、関心を持つには・参加する方法はどうするか」などという意見が出てきてもよいのに、それもない。学者(男性陣)の議論が分からない、故に「自分の半径5m以内」しか考えられない、という立場から、最後まで一歩も出ることなく、唯一主張したい点である「グローバル化称賛」論だけぶっていた。

はあちゅうという人の意見が支離滅裂なのは、「日本はダメ論」を言っておきながら「日本のダメなことを言っても楽しくない」、と一貫性のないことを平気で言うところだ。はあちゅうという人にとって、「日本にいてもダメ、教育もダメ、東大の一番でもハーバードで一番になれない、だから日本では決して世界の一番になれない、英語もそう、だからグローバル化でもっとアメリカ化すべき」ということが、彼女の最も自信に溢れた主張点であった。これだけ日本を腐しておきながら、ワクワク感がない、って、そりゃあ、あんたのような「日本はダメ」論者がそういう空気なり風潮なりを、まき散らすからではないのですかね、と思わずにはいられなかった。
はあちゅう」にとって、例えばグローバル化とは無縁の時代であった日本人研究者たちに、何故ノーベル賞受賞者が生まれてきたのか、というようなことを全く考えたことがないのだろうな、とは思った。


最悪だったのが、仲暁子とかいう起業家みたいな人だった。彼女は若くして起業し、成功を収めたということらしく、彼女の主張というのは、はっきり言えば「自分の成功体験」だけだった。自分のやった方法を「みんなもやればいいのに」というだけであり、それで日本の問題が解決できると信じているのかもしれない。彼女が最後に述べた点こそが、彼女の意見を端的に表しているだろう。「英語をしゃべること、プログラミングを覚えること、シリコンバレーに行くこと」だった。もしも本当に彼女の言うことを実践したら、日本で誰もゴミ収集をしてくれる人はいなくなるだろう。プログラマーだけでは、社会は支えられないぞ。彼女には、そうした意識は欠片も持ち合わせていないだろう。彼女にとって「自分以外の人々」がどのように暮らしているか、ということの想像力が決定的に欠如しているとしか思えなかった。「社会は、あんたみたいなエリート意識丸出しの人間だけが暮らしているわけではないのだよ」、と言ってあげたいと思ったが、グローバルエリートでもない彼女を責めても仕方がないか。


「インターネット時代の申し子」とも呼ぶべき「仲」や「はあちゅう」にとって、グローバル化の恩恵を受けて成功できた自分たちの存在は、すなわちグローバル化の肯定や賛美になりこそすれ、懐疑的とか適合できない他者を考えるといったことには決してならない、ということだろうなと思った。まさしくグローバル主義者というか、洗脳されてしまった人という印象。彼女たちの根底にあるのは、目先の利益と明日ある現実、そういうものであろうな、と。「日本という国」とか「100年後の日本」といった視点は、一切持ち合わせていないかのようであった。

それも仕方のないことではあるのかもしれない。だって、どうせ考えたって未来のことなんて誰にも分らないのだし、”いつ来るか分からない”100年後の未来なんて考えたって、自分の得になるわけでもなけりゃ、確かめようのない話なのだから。なので、日々を生き抜く為に「今ある目の前の現実」だけに対処してゆこうとする態度は、別に悪いわけでもなく、実際彼女たちはそれで厳しい時期を乗り越えて成功をつかんできたんだ、ということだろうと思うので。


ただ、彼女たちの姿勢に最も苛立つのは、自分たちのようにグローバル化に適合できるよう「お前らも変われ」と、社会に強要していることへの無自覚である。何故彼女たちの要望に合わせて、「社会全体」が変わらねばならないのだろうか。そういう疑問を抱くことが決してない、ということに驚愕するのである。どの道グローバル化は避け難いのだから、「グローバル主義者の住みやすいように社会構造も変えてくれ」ということなのかもしれないが、社会全体で見れば圧倒的少数派でしかない、彼女たちのようなグローバルな仕事(笑)をしているとかネット関連企業とか本格派多国籍企業とか、そういう連中に合わせて政治も社会も変えてくれという要求が傲慢ではないのか、と。そういう自省のようなものが皆無なのであろう。


こういう時、ごく少数の人間の「踏み台になれ」と要求してるも同然だ、という自覚を持つべきではないかと思うのだが、そういう発想には決してならないのがグローバル主義者なのかもしれない。


もう一つの苛立ちは、彼女たちは自分が「単なるフリーライダーに過ぎない」かもしれない、と考えることがない、ということだ。ぼくの目から見れば、彼女たちは先人たちの蓄積なり功績なりの恩恵を「タダで利用している」、まさしくフリーライダーとしか思えない。しかし、彼女たちはそれを「自分の力」であると勘違いしているのである。仲の言葉が、それを象徴していた。端的に言えば、ネットさえあれば、日本である必要がない、ということだ。今なら、自分には”何もなくても”アマゾンやグーグルのサービスを利用すれば、簡単にビジネスもできるし世界相手に商売が展開できるのだから、別に日本じゃなくてもいい、というものだ。これが文化喪失ないし破壊の基本形なのだろうな、と思う。本当に思うけど、グローバル主義者の方々の妄言は聞き飽きたので、日本から出て行って欲しい。楽天も三木谷もそうだが、彼女たちのような連中こそが、日本以外のシリコンバレーだろうとシンガポールだろうと中国だろうとアフリカだろうと、どこでもいいのでさっさと出て行って欲しいなと。日本全体を変革させるのは多大な労力と摩擦があるのだから、手っ取り早く他所へ出て行ってくれ、と心底思うわ。ネットがありさえすればいいんだから、簡単でしょう?


日本のような社会的環境が、タダで手に入るとでも勘違いしているとしか思えない。この快適環境は、簡単には手に入らないのだよ。アマゾンの注文品が僅かな時間で確実に届く、というシステムを維持している根幹は、配送をしている人々だ。英語でもなけりゃ、プログラミングでもねえ、寝ずに夜通し運転して運んでくれる「運ちゃん」たちだ。電力だって、ネット回線だって、これまで「日本という国」全体として投資をしてきた賜物であり、それを支えてきた人々のもたらした恩恵なのだ。誰も電線や回線や基地局工事をできる人がいなけば、それらは手に入らなかったものだ。簡単に「タダで利用できる」「すぐにビジネスができる」と言うが、それは過去の多大な先行投資の結果なんだよ。そろそろ、その投資収益を回収したいが、どうしたらよいか?


勿論、グーグルやアマゾンのサービスは便利だ。それはそれら企業のお蔭だ。けれども、自分たちの今の環境や暮らしというのは、先人の恩恵によるものであり、過去の蓄積に結果なのだ、ということをもっと意識する必要があると思う。日本のように、自分の会社や店が略奪で襲撃されPCなんかも根こそぎ強奪されずに済むのはどうしてか、しょっちゅう停電で電力供給が止まらないのは何故なのか、食べたい時に何でも購入でき、交通機関はほぼ時刻表通り運行し、きちんと水の流れる清潔なトイレが整然と並び、どこかの先進国の大都市みたいに街中にゴミの山ができて悪臭に悩まされずに済むのはどうしてなのか、よく考えてみたらいいと思う。

それは、英語も話せずコードも書けない圧倒的大多数の人々が、社会を支え続けているからだ。社会的安定という点も含めて、それは簡単に手に入るものではない、ということだ。コストもかかるし、教育効果も当然関係する。
彼女たちに是非とも考えてほしいのは、どうして同じアメリカなのにシリコンバレーがあんな風で、片やデトロイトはあそこまで荒廃してしまったのか、ということだ。シリコンバレーになんて新に作らずに、元からある資源を利用すればよかっただけなのでは?だって、ネット環境さえ作れればよかったわけでしょう?


その点、学者系論者たちは、学問的蓄積の恩恵というものに自覚的だろうと思うので、随分と違ったものだった。歴史的とか長期的視点での議論ができていたのは学者だけだった。
特に違いが際立っていたのが、語学に関する議論についてだった。学者側としては、おおまかに言うと「日本語が文化圏・文化的基盤」として重要、というものだった。サブとしての「第二語学」という、旧来型に近いものであろうなと受け取った。そして、少数言語が存続できる世界こそが、望ましい世界像ではないかというものだ。或は、日本語特化ということもある種の戦略かもしれない、とも(あくまで推測になるが、具体的に書けば「権威ある学術誌」はグローバルな英語誌、という先入観を排除すべし、と。日本語の学術誌を世界最高峰とすれば、その情報を読みたい研究者たちは必然的に日本語誌を読まざるを得なくなる、ということ。科研費なんかがインパクトファクター導入で予算配分を決められる、という行政側の誘導策によって「英語崇拝」が加速してしまったのは否めない)。


極端に言うなら、グローバル礼讃の彼女たちなら「方言なんか必要ない、マイナー言語だし標準語さえあればいい」ということで、大阪弁も京都弁も博多弁もみんな消えても問題ない、と。一方で、地域性なり多様性を存続させるには、方言が残るような社会の方が望ましいのではないか、というのが、学者側意見だったわけだ。英語化しろ、と彼女たちがしつこく言うのは、それが彼女たちの成功(成り上がり)を支えた重要なツールが英語だったから、だ。


伝道者として取り込むには、確かに便利だろうね。彼女たちの成功体験を正当化し強力に肯定してくれるもの、それが英語でありグローバル化だから。似非科学だの健康食品だのエコ化粧品だの占いだのといった、何かにハマる女性というのは、熱心な信奉者として取り込み易く、自ら宣伝者となってあちらこちらに広めて回る伝道者となってくれるから。


ということで、論者の選択がもっとどうにかならなかったのかな、と。
残念無念な放送だった。ああ、グローバル主義者の短絡思考が明らかになってよかったか。



ああ、それから、ちょっと追加。


古市くんは、かなり自分を抑えていたのかもしれない。NHK(論壇)で生き延びる術を学んだ、ということだろうな、と。かつての湯浅誠が、どういう処理のされ方をしたかを思えば、それも仕方のないことがないことかもしれない。それは学者系論者の中にもあったかも。長くいるというのは、それなりの意味がある。思想系の人は、意外にも計算ができるタイプの人なんだろうなと思った。それはひとつの戦術ではあるから。否定はしない。

それとは別に、仲暁子さんが語っていた、50年前の日本はお金がなくて貧しいからどうこう、という話ね。あれは、日本人の過去を見下しているか、なめているとしか思えなかった。50年前の日本が世界の中でどれほど貧乏だったか、って?


はっきり言って、なめてる。日本は1968年には恐らく世界第二位の経済大国になっていたはずである。東京オリンピックの64年時点でも、当時のGNPランキングでベスト5には入っていることは確実だろう。現代で言えば間違いなくG7に入っている、というようなものだ。それが「貧乏でお金がなかった」と?

敬意を欠いているのは、こういう無理解かつ歴史的認識の欠如した、全くの成り上がりの人間なのではないか。過去への軽蔑という先入観ゆえに、50年前は日本は貧乏で後進国だった状況からアメリカのお蔭で経済発展してよくなった、みたいな固定観念に毒されているとしか思えない。日本は、既に約50年前から「世界第二位の経済大国」だったんだよ、ボケが。そういうことを理解した上で、現状の日本を語れ。番組に呼ばれるなら、その程度の話を知った上で、国について語れ。そう思うわ。


これほどイヤな思いをする番組というのは、近年稀だ。こんなことなら、録画しておけばよかった。
そうすれば、一言一句漏らさず、叩きのめすことができた(笑)のに。


家入さんは、ちょっと外れてはいたけれど、学者とは違うから、ヘンに学問っぽいとことはないし、他の起業家連中とは違った「地に足のついた話」ということしかしてなかった。政治はよく分からないけど、身近の部分だけ改善しようと行動している、というのは、本物だ。行動しないのは、多分一番ダメ。行動に移す、というのが、最も価値が高い。どうせ世の中変わるわけない、と、なんにもしないのが最低なのだよ、政治とは。そういう点において、実践ということに関しては、家入さんの活動は他の起業家連中とは違い、最も評価できる。やはり、生きる上で辛酸を舐めた苦しさを知ってる人ならではだと思う。中身は、昔よくあった学生寮の典型例みたいなものだったけどな。等身大以上のものを決して言わない、という点において、好感が持てるというのはある。