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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

シムズ理論(FTPL)を模して貨幣と物価を考えてみる(試案)

ここ最近の話題といえばMMTというのがあるそうだ。そちらの説明は誰かに譲って、まずは、全くの素人考えで申し訳ないが、モデルで考えてみることにする。


参考;

https://www.mof.go.jp/pri/research/special_report/f01_2017_12.pdf


統合政府の予算制約式を、次のように仮定する。
(各期をn期、(n-1)期と置けば、全ての文字に添え字をつければよいが、ここでは面倒なので、0期と1期だけで簡略化して表記する)


政府支出(利払い費以外)をG

0期の政府債務残高をB、1期のそれを(B+ΔB)

1期の政府徴税額をT

0期の貨幣供給量をM、1期のそれを(M+ΔM)

国債金利をr

とする。


統合政府予算は通貨発行益を利用可能と仮定し、


  G +rB={(B+ΔB)-B}+{(M+ΔM)-M}+T   

とする。整理すると、

  G +rB=ΔB+ΔM+T   (1)式

が得られる。
  

例えば、税収と国債追加発行額の合計と同じ額だけを政府が支出する場合、

 G=T+ΔB

となるので、(1)式において

  rB=ΔB+ΔM+T-G

整理すると、

  rB=ΔM

すなわち

  r=ΔM/B  (2)式

が得られる。


ここで、フィッシャー方程式の名目金利rと実質金利r'、インフレ率(物価水準)をPと書くと、

 r =r'+P

であるから、(2)式と併せて

 P=ΔM/B-r'  (3)式

となる。

日本のようなデフレ時期だと、Pがマイナスの値をとるので、

 ΔM/B<r'  (4)式

のような関係性がうかがわれる。


貨幣供給量(ΔM)が少なく実質金利より小さな値となっていると、デフレに陥る、という意味合いである。統合政府が通貨発行益を利用して国債利払い費に充当しているにも関わらず、それでもなお、マネーストックの追加量が実質金利水準に比して少ない場合には、デフレとなってしまうということである。


また、(1)式に戻って、統合政府の支出額(一般政府支出+債務の利払い費用)には償還額は想定されていないし、財政赤字(T-G)を埋めるのが国債か貨幣供給量かは、代替的なので違いがない、ということであろう。

一方で、国債発行を増加させても(2)式の関係性を見る限り、政策金利(安全資産たる国債金利の発行条件に深く関与するだろう)が適切な水準が保たれていれば、フィッシャー方程式におけるインフレ率Pが非常に高い値をとることも抑制されるだろう、ということである。もしも貨幣供給量が著しく増加する―例えば財政赤字分を国債発行せず全部通貨供給量で賄うような―場合、rが増大するので、結果的にインフレ抑制の為に高い政策金利を要求されるかインフレ率の騰貴を招くか、ということになるだろう。


自国通貨発行権国債発行権は、代替的な役割であることを理解しようとするのには、役立つ考え方なのかもしれない。流動性の罠の状況下のように、金利rがゼロ近傍かほぼゼロであると、財政赤字分が国債発行でも貨幣供給でも違いは殆どない、ということでもある。しかも、単に紙幣を刷るだけではダメで、「財政支出として使う」というのが、(1)式の意味するところである。政府が支出しないと、マネタリーベースとして供給されることにはならないから、である。


また、(1)式を変形して、


  r=ΔM/B+財政赤字/B

と書くと(財政赤字=T+ΔB-G、税収+赤字国債-政府支出)、


貨幣供給量が財政赤字を超えていかないと、名目金利が上がらない、すなわちインフレ率も正の値をとるのが難しくなる、ということであろう。また貨幣供給が乏しい場合には、国債発行の増額によりΔBを大きくしないと、ΔB+T-Gの全体の値が大きくはならない。試みてきた大部分が、増税(Tを大きくする)か政府支出Gを減らす、という努力だったので、それも限界があろう。


段々と貨幣供給量ΔMを増やし、緩和措置によりr'の引き下げをもたらした結果、Pの上昇に若干の効果はあったかも、だが((4)式の不等号が逆転した状態、P>0の時ΔMの増加や金融緩和で引き下げたr'の効果が発現という意味合い)、デフレ脱却が定着するには至っていない。


財政赤字分を国債発行ではなく、全部貨幣供給により賄おうとすると、あまりに急激なΔMの増加があればrの増大をもたらし、引いては物価の著しい上昇を来すことがあるのかもしれない。


通常の国債市場でのデフォルト問題というのは、(1)式の rB の利払い費用が捻出できないケースということが多いと思うが、ΔMで補える限りにおいては、デフォルトの危険性は乏しい、と見える。自国通貨発行権は破綻危機を回避し易いとの意見は頷けるものがあるように思える。ただ、これがあまりに過剰になってしまうと、やはり貨幣の信頼性が落ちることになるという問題が発生するかもしれず、そうした局面ではやはり物価が高騰することを招くかもしれない。


こうした整理や理解は、問題があるかもしれないが、一応書いてみた。

今後の研究が待たれる。

平成年代の終わりに

平成の世は、突如としてやってきた。
正月明けの七草粥と伴に。

そして今、あと数日で訪れるのが、令和の時代だ。

唐突な終わりを迎えることを望まれなかった天皇陛下が、国民の日常生活にできるだけ影響を与えぬようご配慮されたが故に、この度の譲位となったのである。これも戦後の「新たな皇室」の形と言えよう。


私にとっての昭和は、遠い記憶の中でしか残っていない。特に日記や記録をつけていたことがないからだ。せいぜい今では殆ど見ることのない卒業アルバムに、記憶の断片が少しばかり見つけ出すことが出来る程度だ。


それに比べると、令和の記憶はサイバー空間の中に暫し留めておけるかもしれぬ。
歳とともに劣化してゆく私の記憶を補う備忘録として。


昭和が終わり平成を迎えた時、私はどう感じ、何を考えたのか殆ど憶えてはいないが、今度は忘れぬよう、平成と令和の狭間における雑感を記しておきたい。


私の昭和は、青春時代だった。赤ん坊が青年へと成長する過程が、昭和年代だった。

平成は、これまでの自分の人生の過半を占める年代である。

大学を卒業し、就職し、結婚して、子供が生まれ育てた時代。仕事上でも家庭生活でも、変化に富んだ年代であった。また、私の、そして妻の父も亡くなったのは平成年代だった。


今では我が子が就職してそこそこ自立するようになり、自分の肩の荷が少しばかり降りたような気がする。今後老いてゆく私達夫婦には、新たな課題か役割があるのかもしれないが、それが何かは全く分からない。まだ探し中である。


仕事上では、自営になってみて、色々と知ったり勉強になったことは多かった。自分の才覚で食べていかねばならない、というのは、やりがいもあるが不安もある。自分には、これといった自信の源があったわけじゃない。ただ「何となくやってみる」って勢いに任せて飛び出したようなものだった。その蛮勇と決心は、今となっては非常に良かったと満足している。


けれども、これまでの道のりが今後も続くわけではないので、自分の将来には不安はある。老いは確実に身体面で衰えをもたらすので、過去の自分と同じことができるとは思っていない。だからこそ、まだ見ぬ未来の生き方を考えてはいるのだが、まだ何も思い浮かんではいない。自らに仕事を課す必要があるが、それが発見できてはいないのだ。


それと、時代の変わり目を実感する出来事があった。
平成の終わりに近づく今年の春に、病床に伏していた私の恩師とも言える人が亡くなったのだ。若輩者だった私を育ててくれた人だった。
言ってみれば『NARUTO』に出てくる、自来也先生のような存在の人だった。


私はその方が亡くなる前に見舞いに行くことができたのだが、そこではじめて最期の近いことを知らされた。

私は、これまでその方に特段の感謝の言葉を述べたことがなかった。一緒に酒を呑んだり、議論したり、麻雀をしたりは沢山してきたのに、何故か「ありがとう」の一言さえも伝えたことがなかった。


けれども、病床で苦痛と戦い続けている姿を見て、生まれて初めて「貴方が私の師匠です、私はあなたの弟子です、今の自分があるのは師匠のお陰です、本当に有難うございます」と、涙ながらに必死で伝えたのだった。


号泣する私の手を、その方は最後の力を振り絞り、グッと握りしめてきた。もう声を出すことは出来なかったが、師匠の握る力の強さとカッと見開く表情に、自分の感謝が師匠に届いたんだ、と悟った。


そして、師匠がこれほど喜んでくれた姿を見たのは、初めてだと思った。


私がまた一つ死への一里塚を過ぎた日から2日後、その方は息を引き取った。亡くなられたのはとても残念だったが、最後に自分の思いを伝えることができたのが師匠への唯一の恩返しだと思えた。


師匠の死は、大切なことを教えてくれた。
自分が普段から思っている「ありがとう」の気持ちは、早くから伝えた方がよい、ということだった。人の死は、いつも突然やってくるのだから。自分の感謝を伝えられないと、随分と大きな心残りとなると思うのだ。


平成の終わりの出来事といえば、これからもずっと、師匠の死を想い出すに違いない。

 

最後になりましたが、もう一つ大事なことを記しておきたい。


天皇・皇后両陛下、長きに渡り、多大なる重責を果たされましたこと、心より感謝申し上げます。誠にありがとうございました。

まさしく、日本国そして国民にとっての、父と母のような深い慈愛と、いたわりと、強さを与えて下さる、かけがえのないお立場を貫いてこられたと思います。


特に、大勢の国民が大きな天災地変によって傷つき、悲嘆にくれている時、痛みを和らげ、生きる勇気をくださるお言葉を頂戴したことが、どれほど多くの国民を救ってくれたことか。

東日本大震災福島原発事故の悪化により、毎日が不安でたまらなかった国民にとって、陛下ご夫妻のいつもと変わらぬ姿勢と温かい思いやりのお言葉が、どれほど安堵をもたらしたことか。

感謝し尽くしきれぬ御恩を頂戴しました。


私にとって、昭和の終わりと平成という新時代の到来は、単に「ああ、天皇が代わるんだな」というものでした。当時の私は、社会のことなど右も左もよく分からぬ、ふわふわした学生気分に浸っていただけの、若造でしたので。


元号が変わることも、新しい天皇が即位することも、私にとっては、あまり関心のないことでした。何となく「報道で知る」という程度のものでした。

ですが、自分が年齢を重ねたり、家庭を持って子育てしてみたりすると、段々と天皇・皇后両陛下への関心も感じ方も変わっていきました。


何故テレビでは「天皇制反対か否か」といった議論をこんなにやっているのか、大した興味もなく考えたこともなかったし、自分にとって天皇制の有無が重大な関心事ということでもありませんでしたが、両陛下のお姿をニュース等で拝見するにしたがい、何かを感じ取るようになったと思えます。


個人的な感想ですが、多分「祈りと語りかけ」のようなことです。
国民生活の安寧と国土安泰を願い、全国民の為に、全国民になりかわって祈ること。そして私達国民に、「お気持ちを伝えるべく、話しかけてくださる」ということ。


そのお言葉が、私の胸に響いてくるようになったのです。


常に国民のことを思い、無私の愛情と慈しみを注いでおられる両陛下が、国民に対しどのような範を示しそうとされておられるのか、私自身が一人の父親として何かを感じるようになったのだと思います。恐らく唯一の歳の功は、平成の初めには見えなかったものが、少しは分かるような大人になれたということです。


当然といえば当然ではありますが、両陛下は何かを自慢したり、力で無理強いしたり、恩着せがましく言うことはありません。人知れずそっと、なすべきと思われることをなし遂げてこられました。


ただただ祈りと愛を国民に与え続けてこられたお姿によって、本当に国民から愛される天皇家を戦後はじめて実現されたのだと思います。国民に注ぎ続けてこられた愛がいかに大きく深かったか、そのことが国民から愛される源になったものと思います。


昭和天皇は、昭和年代における戦争の罪業と戦後復興期の新たな民主主義国家を背負わねばならず、様々な意味においてご苦労をされたことでしょう。

同じ一人の人間が、どちらの責任も担う立場となれば、厳しく追及してくる国民がいるのも無理はなく、国民から愛される「開かれた皇室」を実現することは、極めて困難だったでしょう。


平成天皇は、皇后陛下の愛と支えによって、それと等しく国民にも非常に深い愛を注がれました。多くを語らずとも、無私の愛が大勢の国民の心を動かしたのだと思います。

これまで誰も見たこともなく、存在してこなかったであろう「新たな天皇像」を、自らの努力と挑戦によって、年月をかけながら静かに作り上げてこられたというのが、私個人の印象です。


平成年代は、両陛下のお考えや姿勢によって、国民が心から敬愛する、戦後はじめて「わたくしたちの天皇陛下」が誕生した時代だったと思えます。


極端に言えば、法律は「お上の決めたもの」として、国民に降ってきます。けれど、「わたくしたちの天皇陛下」とは、国民が自ら望み選びとった結果なのだと思えます。制度上の「決まりごと」としてではなく、国民が待望する「天皇」が自然に立ち現われてきたのだと思います。「開かれた皇室」とは憲法や制度でもって国民に対し何かをするのではなく、国民自身が自分の意思で「心を開く」というようなことだと、思っております。


君が代」斉唱問題で揺れていた時、天皇陛下園遊会での故米長名人に「強制はいけません」と穏やかにたしなめられたことがおありかと思いますが、人は心に響けば自ずと心は開かれてゆくことを示唆されたのではないかと受け止めておりました。

 

今後、両陛下には、是非ともお身体をいたわっていただきとうございます。
譲位されたとはいえ、時には国民にお言葉を頂戴したり、お元気なお姿を見せてくださると、大変心強うございます。


これからも、日本という国を、そしてわたくしたち国民を、これまで同様、見守って下さればと思います。


長い間、大変な重責を全うされましたこと、幾多の困難や御苦労を乗り越えられましたこと、改めて厚く御礼を申し上げるとともに、末永く天皇家と日本国が繁栄するよう祈念申し上げたく存じます。


まことに、ありがとうございました。

日本国政府による辺野古埋立という犯罪~3

沖縄県が訴訟を取り下げた、との報道があり、敗訴が確定したとの事。
で、久しぶりに眺めなおしてみた。


福岡高裁那覇支部の判決文がこちら

https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/henoko/documents/kousoshinhanketsu.pdf


かなり杜撰な出来栄えかと。

わざと分かり難くしているかのよう。文章を改めるのに、わざと最終的にどういう文言になったのかを「全部書かない」方式にしてある、ってことさ。まるで赤ペン修正したようなものでは?

ということは、法律改正案の文言を書いてる人が考えたかのよう、ってか?

対照表でも添付されてないと、高裁判決文だけ読んだ人には「結局、何が書かれたのかがよく分からない」っていうふうにしてある、ってことさ。
卑劣なクソ官僚あたりが考えそうな手口なのでは、って話ですね。早い話が、読ませたくない、ってことだわな。


元の地裁判決がコレ

https://www.pref.okinawa.jp/site/chijiko/henoko/documents/01honanhanketsu.pdf

特徴的な部分を示すと、次の通り。

『争訟の相手方が個々の国民であるか、国又は地方公共団体という行政主体であるかを問わず、一般的に、行政主体が、法規の適用の適正ないし一般公益の保護のためではなく、自己の主観的な権利利益に基づき保護救済を求める場合に限り、当該訴訟が法律上の争訟に該当する旨を判示したものと解される。』

『平成8年最高裁判決は、…当該事案においては、市が市道の機能管理権(公物としての機能維持)のみならず財産管理権(不動産の所有権ないし占有権に基づく財貨的管理)を有していたのであるから、同判決は、地方公共団体が自己の財産上の権利利益の保護救済を求めることができると判示したものを解される。』

『行政主体が自己の主観的な権利利益に基づき保護救済を求める場合を除き、行政主体による行政上の義務の履行を求める訴訟の法律上の争訟該当性を否定したものと解されるところ、国又は地方公共団体が履行を求める公法上の義務が、行政処分ではなく法令により課されたものであったとしても、法規の適用の適正ないし一般公益の保護を目的として提起された訴訟である限り、自己の主観的な権利利益に基づき保護救済を求める場合に当たらないことは明らかといわざるを得ない。』

『原告が私人とは異なる公益の代表者としての立場で提起したものであって、私人と対等な当事者として裁判所に助力を求めているものとは解されないから、自己の主観的な権利利益に基づき保護救済を求める場合には当たらない。』


国側主張にまんまとしてやられてるかと。
争点は、最高裁判例の解釈や適用の論争ではないはずが、絡め取られてる。


追及すべき点が違ってる。

・名護漁協のしたとされる漁業権の放棄
=国のいう「漁場でない、だから岩礁破砕許可は不要」論

これは大間違いなのに、ここを徹底攻撃しないと。
ここでも漁業法22条とか解釈論に収束してるのが勝ち目を遠ざけてるかと。裁判所側が国の味方につくのは想定通りなので、知事権限が強固な条文で勝負しないと言い負ける。


・争訟

国も地裁も「争訟でない、だから裁判所の審理対象でない」に逃げ込もうとしているのだから、その反対根拠を示せばいいのに、しなかったのね。
H14年の最高裁判例とか8年判例とかで見解の相違、って逃げを許すとこうなる。

向こう(国や裁判所内部)は、事前に検討会みたいなのをやって、恐らく今回は複数の行政法学者wの見解も集めたわけでしょ?w
辺野古代執行訴訟では過信した官僚どもが大失態のヘマをしでかしたのでw失敗をなるべく回避するように注意していたんでしょうね。


どういう法理?法学理論でもって、地裁判決の言うような争訟該当性の論理みたいなのが出てきたのか、まるで分からん。どこの独特な論理なの?

例えば最近でも
https://www.bbc.com/japanese/47288025

違憲性を争うべく、州政府(州司法長官)が連邦政府・大統領を提訴しているわけで、何故日本では自治体が国を訴えることさえできぬのか、おかしいと思わないですかね?

日本独自の判例体系だから?w
どんな法学理論なんだよ。


前置きがあれこれと話が飛んだが、各論的に以下に述べる。


漁業権の論点は、昨年に書いた通りである。

https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/21334b80111b971d046ec6d5a653d1aa

https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e99e2a511c5cde3a9d7ceba8cf29f1ad


名護漁協の漁業権についての免許は13年9月1日、仲井真元知事の埋立承認前である13年3月11日に当該海域の漁業権一部消滅の特別決議を行い、埋立同意を得たことになっていた(なので、13年12月に埋立承認が表明された)。

14年7月11日に、岩礁破砕許可申請が出された。
これが後に故翁長知事により行政指導的な工事停止要請となるが、防衛省行政不服審査法に基づく審査請求と執行停止を申立てた。
農水大臣は15年3月に知事権限を執行停止とした。理由は「知事権限には処分性がある、工事が停止すると重大な損害を蒙る」ということだった。漁業権が放棄されてるから「岩礁破砕許可は必要ない、知事権限は及ばない」などという理由ではなかった。かえって、知事権限を法的に認め、それを執行停止しないと「工事ができない」と防衛省が主張したのを全面的に認めたのが農水大臣の執行停止決定だ。

日本政府は、『合法的に取得した岩礁破砕等の許可の効力を期限を限ることなく実質的に停止させ、岩礁破砕等を行おうとする者の権利義務を変動させるものである』と文書で言ったのだぞ?

嘘つきは次々と主張を変えるんだよw嘘で誤魔化そうとするw
なので、沖縄県は農水大臣の執行停止決定通知書や防衛局の申立書を証拠として提出し、国の主張の矛盾を突けばよかったのに、そうしなかったみたい。何故かは不明だけど。


漁業法22条の変更がどうってのも、国の主張に付き合う必要性がないかと。
むしろ漁業法8条2項の漁業権行使規則を徹底して言うべきなのだよ。

「当該漁業権又は入漁権の内容たる漁業につき、漁業を営むべき区域」が規定されてるから。

国の言う当該海域の「漁業権の放棄」が効力を持つには、漁業権の区域の規定をする必要がある。それは漁業権行使規則の変更以外には「規定できない」はずなのだよ。
「漁業を営むべき区域」は漁師たちが自分勝手に定めても、それだけで直ちに有効にできるという法体系にはなっていないから、だ。


同法8条6項で、
「漁業権行使規則又は入漁権行使規則は、都道府県知事の認可を受けなければ、その効力を生じない。」

ときっちり書かれているのだから、その点を追及すればいいものを、放棄だ変更だいや違うだの国や裁判所の誤魔化し戦術に引っ掛けられてしまってるわけ。

ドサクサ紛れで、国も裁判所も適当な屁理屈を並べているだけw


海域に対しての知事の管理権限は水産資源保護法等で一部にはあるが、財産権がないとか裁判所が言うわけだが、どうなんでしょうか。


15年11月21日 衆院予算委(閉会中審査)

○石井国務大臣 お答えをさせていただきます。
 一般私人が埋め立てを行う場合には、もとより一般私人は公有水面を埋め立てることはできませんけれども、国が埋め立てを行う場合には、国が所有する公有水面をみずから埋め立てるというものでございまして、本来的には、この所有権に基づき埋め立てを行うことができるというふうに解されております。
 このように、国が行う埋め立てはみずからが所有する公有水面を埋め立てるものであることから、埋立法は、承認、免許という文言を区別して、適用される条文も異なっているにすぎません。
 いずれにしましても、一般私人であろうが国であろうが、ともに知事の免許または承認を得なければ適法に埋め立てをすることができない、また、知事が免許または承認の審査を行うに当たっての基準も同じ基準
であるということから、国、この場合沖縄防衛局長が、一般私人が立ち得ない特別の立場、固有の立場において承認を受けているものとは解されないというふうに考えております。

 


国に所有権がある、との主務大臣たる石井国交大臣答弁だ。
所有権は財貨管理的な権限ではないけれども、財産権の一部なのでは?

そして、この権限は法定受託事務として、知事に権限が委任(?、用語が正確には分からないです)されているわけでしょう?

しかも海岸法では一般公共海岸区域に該当し、知事に管理権がある。

 

海岸法 第三十七条の三 
一般公共海岸区域の管理は、当該一般公共海岸区域の存する地域を統括する都道府県知事が行うものとする。


また、海岸の国有地は地方自治体への無償貸付となっている。

第四十条の三 

国の所有する公共海岸の土地は、国有財産法(昭和二十三年法律第七十三号)第十八条の規定にかかわらず、当該土地の存する海岸保全区域等を管理する海岸管理者の属する地方公共団体に無償で貸し付けられたものとみなす。


これはキャンプシュワブの海岸でも同じだろう。
埋立区域の海岸と水面は連続的なので、知事の管理権限が及ぶのだよ。高潮線では自治体管理(国有地の無償貸付)地の上に水面が来るはずでしょう?

連接する水面(法3条)により水産資源保護法は適用されるだろう。財産的権利利益があるものと見る。

参考記事:
15年11月>https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/00e28f084ca20667f4350615f488dd07

 

次に争訟の該当性云々である。
国と裁判所が言うには、

「一般的に、行政主体が、法規の適用の適正ないし一般公益の保護のためではなく、自己の主観的な権利利益に基づき保護救済を求める場合に限り、当該訴訟が法律上の争訟に該当する」

らしい(笑)。他にも

「行政主体による行政上の義務の履行を求める訴訟の法律上の争訟該当性を否定したもの」
「法規の適用の適正ないし一般公益の保護を目的として提起された訴訟である限り、自己の主観的な権利利益に基づき保護救済を求める場合に当たらないことは明らか」

おいおい、これは以前の国が翁長沖縄県知事に対して提訴した違法確認訴訟を根底から覆す見解でしょう?ww


裁判所ってのは、耄碌が激しいのですか?

16年12月最高裁判決>https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/e4bcdcb3274486fbcf93097821843a54

平成28年12月20日 最二小 平成28年(行ヒ)394号


あんたら、この裁判は誰がやったの?w
国でしょう?原告は国土交通大臣がやったんでしょ?w


15年11月21日 衆院予算委

安倍内閣総理大臣 
防衛大臣からも答弁をいたしましたように、普天間の返還は一日も早く実現しなければならない、まず、この基本的な考え方の上に立って、このため、移設作業の事業者である沖縄防衛局長は、一刻も早く移設事業を再開するため、迅速な手続である審査請求を行うとともに、執行停止の申し立てを行ったものであります。これを受けて国土交通大臣は、沖縄県の意見を聴取した上で、重大な損害を避けるために緊急の必要性がある等の判断のもとに、行政不服審査法にのっとり執行停止の決定を行ったものであります。

 一方、このようなプロセスの中で政府として改めて検討した結果、翁長知事による埋立承認の取り消しは違法であり、著しく公益を害するものであることから、この問題の解決を図るためには、最終的に司法の判断を得ることができる代執行等の手続に着手することがより適切な手段であると判断され、閣議において政府の一致した方針として了解されたものであります。


提訴理由として言ったのは、

・重大な損害を避けるために緊急の必要性がある
・著しく公益を害するものである

だよね?


これは違法確認訴訟の時点でも、取消処分は違法だ、工事停止で公益を害するって国は散々言ったろ?
これは和解で取り下げたけど、国地方係争処理委員会の結果を受けて、沖縄県が提訴もせず取消処分を撤回もしない、との理由で、国交大臣が違法確認訴訟をしたでしょう?


この訴訟では、国交大臣の主観的権利利益なんか問題になってないでしょうに。
沖縄防衛局が「一私人同等の事業者」としての利益を問題にしただけであって、石井国交大臣の個人的利益なんか、全く関係ないんだよ。

そして、公有水面埋立法の適用を「適正にせよ」と裁判に訴えたわけだろ?
公有水面埋立法の規定からすると翁長知事のした承認取消処分は適正な適用ではない、だから違法だ、の論法なんだろ?


地方自治法251条の7第1項は、国地方係争処理委員会の判断が国の関与が違法の勧告か合法なら自治体が指示に従え、か、どちらかの場合にしか適用されない。当時の係争委の結果は、どちらでもなかっただろ。沖縄県は係争委の通知に従っただけではないか。
にも関わらず、最高裁は無条件に国の提訴を認めやがった。
出来レースだったから、だろ?


そして、国交大臣を原告とする違法確認訴訟は、上の地裁判決で言う所の、自己の保護救済を求めるものではないし、公水法の適正なる適用を指示した大臣が行政上の義務履行(取消処分の撤回)を求めたものだろ。
その目的は公益の保護だって総理自らが答弁しとるだろ。裁判で提出した文書にも、何遍も国は公益だ公益だって言ったんじゃないか。


それは「争訟」該当性に欠けているから、最高裁基地外だ異常だおかしい、って教えてやれよ。


この国の司法は、本当に、とことん腐り切ってる。

出してくる屁理屈も、支離滅裂のものばかり。これを誰しも「当然だ」と考える狂った司法なんだとよ。

イチローにありがとう

昨日から、イチロー引退の報一色となった。

心から感謝を述べたい。偉大な選手を同時代に見ることができて、本当に幸せだと思った。

長嶋さんの現役時代をほんの少ししか見てなかったので、伝説には聞くけど、試合中の実感というのはあまり強くは印象に残っていなかった。むしろモノマネとか回顧映像とかの方をよく覚えていた。


初期の頃、イチローは「若武者」って感じだった。

メジャーに行く時、日本人野手は相当厳しいと思っていた。パワー負けするんじゃないかと。
俊足巧打タイプにとっては、中々厳しい世界ではないかと。


だから、これほど長きに渡り活躍できるとは、想像もしてなかった。

今では、修行僧か居合剣士って感じだ。


イチローの記憶で、最も深く心に刻まれたのは、やはり09年のWBCで世界一になった時だ。

偉業とも呼ぶべき数々の記録達成も勿論凄すぎるんだが、イチローの苦悩があれ程までに伝わってきたことはなかったので、最も印象深いものとなった。


負けたら終わりのSFキューバ戦で、バットコントロールの鬼、いつも軽々とセーフティバントを決めてきた、あのイチローでさえ、あまりの重圧にまさかのバント失敗をしてしまったのだから。


他の、普通の選手が送りバント失敗をしてしまい、小フライを上げてしまう、ってのは、時折見かけるでしょう?
いつもは4番とか上位打順の打者が不慣れなバント指示をされ、失敗するとかって話ではないんですよ。


ボールを捌く、バットに当てる、そういう技術面で最も優れた能力を示し続けてきた、あのイチローさんが、凡ミスにしか見えないようなバント失敗をしたんですから。


険しい表情のイチローの目や顔が忘れられない。
あのシーンを思い返すだけで、こうして書いていても、涙ぐみそうになるよ。


次の打席では、極度の不振続きだったイチローが、飛んだ所が良かったっぽいヒットでチャンスを拡げ、遂に呪縛から解き放たれていったのさ。


この苦しんだキューバ戦で蘇ったイチローは、決勝の韓国戦でも、バントヒットや9回長打、そして延長での劇的な決勝2点タイムリーを放ち、累上で勇ましい姿を見せることができたんだ。


求められるものが高いイチローだからこそ、そしてその責任を一身に背負って戦っていたイチローだったからこそ、あれほど苦しんだのだと思う。

「一本出れば」

スランプに陥った選手なら、似たような経験はあると思うが、短期決戦の中で―例えば10打席連続ノーヒットとかだと、そりゃあ苦しさを感じるよね。シーズン中なら、ちょっと休め・他の誰かが出ればいい、といったことはあるけど、国際大会の準決勝とか決勝になると、そう簡単な話ではないし。


日本代表のチームリーダー的立場であることは、イチローが最も理解していて、発言や行動でもチームを引っ張っていたわけだし。「野球」の素晴らしさと伝えることや大勢の国民を惹きつける努力の一環、という競技の将来発展なども見てたんだろうな、とも思うし。


だから、イチローを替えるわけにはいかない、って面と、監督コーチの立場を思えば「打てなくて申し訳なく思う」というイチローの葛藤のようなもの、チームメイトにも申し訳ない、そういうのがいかにキツく辛いか、当人を苦しめるのか、って感じたんだよね。


心に突き刺さったままの、幾多の棘が抜けると、人間ってこんなに立ち直れるものなのか、割と直ぐに戻れるんだなって、驚いたもの。


だから、どんなに凄い選手でも、大きな試合とか五輪とか、そういう場面になれば、重圧とか苦悩とか、私のような凡人では知ることのできない景色があるんだろうな、と思う。極度の緊張の中で戦うってのは、本当に大変なことなんだなと。


イチローがこんなに長く活躍できたのは、そういうイチローにしか見えない景色の中で、常に挑戦し戦い続けてきたからなのだろう。時にストイックとか言われるのは、そういう一部が垣間見えるのかも。


イチローから見れば、大谷くんみたいな「恵まれた素材」を持つ選手には、自分よりももっと上に行って欲しいと、心の底から願っていることだろう。


他のプロスポーツに押されがちだけど、野球は日本に根付いているスポーツなので、今後も野球文化を育んで欲しいと思う。


本当にお疲れさまでした。
そして、ありがとうございました。


>>イチロー殿

 

ロシアは北方領土の不法行為を認めよ~4

安倍首相が個人的売名行為を目的としてロシアとの交渉を焦っているが、そのことが日本にとって取り返しのつかない不利益をもたらすのだ。

日本人の多くは、安倍のような人間を権力者に選ぶ危険性について、自覚が乏しいのである。それに便乗し卑劣なプロパガンダを仕掛けてくるロシア人は、法を知らないようなので、無法を知らしめるべく、再度書いておくことにする。

参考
11年2月>https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4c0b6668ccd84a0f98cce1867fcc6bfe


さて、プーチン大統領は口数を減らすよう努力しているようなので、ラブロフ外相の「口撃」を取り上げたい。

https://www.huffingtonpost.jp/2019/01/16/sergey-lavrov-press-conference_a_23644733/

簡単に言えば、

北方領土と呼ぶな
・第二次大戦の結果を受け入れろ
国連憲章107条があるのでロシアが正しい

ということのようだ。
何と愚かな(笑)。法を知らぬ者ならば、そういうことを言うだろう。ただし、ラブロフ外相の場合はロシアの行為が違法であることを熟知しているが故のものだろう、とは思うのだが。


喩えたくはないが、ロシアの言い分はこういうことだ。

レイプ魔が女性を強姦した挙句、被害女性が妊娠してしまったら、その事実をもって「結果を受け入れろ。妊娠したのは、本当はお前が俺様を受け入れたからだ」と強姦を正当化するようなものだ。まさしく狂気。

そんな結果を受け入れられるわけがなかろう。

国際法に基づくなら、ロシアの言い分は到底受け入れられない。ラブロフ外相は日本の外交力、国際政治力の無能化を見透かしているので、自らを正当化する主張を繰り返しているに過ぎないのである。

このようなさまをみるに、ニコライ2世も草葉の陰で涙していることだろう。


ヤルタ協定は、北方領土の領有権の根拠にはできない。犯罪者同士が違法な契約を結んでいたとしても、それを理由に「不法行為」を正当化できるわけではないのと同じ。

1945年当時において、戦争によって相手国から領土を分捕ることは国際法上、明らかな違法だったのであるから、ソ連政府が北方領土を「獲得した」という時点で国際法違反だ。


サンフランシスコ条約によって、日本は領有権を放棄したんだ、という言い分も出鱈目である。領有権については、同条約の以下の部分が該当する。


Article 2

Japan renounces all right, title and claim to the Kurile Islands, and to that portion of Sakhalin and the islands adjacent to it over which Japan acquired sovereignty as a consequence of the Treaty of Portsmouth of 5 September 1905.


日本が認めたのは、1905年のポーツマス条約時点に戻す、ということであって、北方領土4島の帰属はポーツマス条約とは関係ない。日露戦争以前から、日本の領土であったことは確実だ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%84%E3%83%9E%E3%82%B9%E6%9D%A1%E7%B4%84

南樺太クリル諸島を獲得したが、4島はポーツマス条約により日本の領土とはなっていない。ロシアがサンフランシスコ条約を根拠に日本の領有権放棄を主張するのは誤りである。もう一度、条約の当該条文を読めと言ってあげたい。


次に、国連憲章敵国条項を根拠に「WW2の結果を認めろ」との主張を見てみよう。


国連憲章 107条

Nothing in the present Charter shall invalidate or preclude action, in relation to any state which during the Second World War has been an enemy of any signatory to the present Charter, taken or authorized as a result of that war by the Governments having responsibility for such action.

<font color="blue">この憲章のいかなる規定も、第二次世界戦争中にこの憲章の署名国の敵であった国に関する行動でその行動について責任を有する政府がこの戦争の結果としてとり又は許可したものを無効にし、又は排除するものではない。</font>


この条文に書かれていることは、戦勝国政府の決定(行為?)や許可を「国連憲章の条文を根拠として無効または排除」するわけではない、ということであって、戦勝国政府のした行為や許可が「一般国際法上、合法である」ことを意味しない。


国連憲章に書かれる敵国は、署名国に対して「国連憲章の条項」を根拠として国際法違反の論理構成をとることができないかもしれないが、少なくとも1945年時点における国際法に基づく「違法の指摘」は何ら問題なく可能である。それは、国連加盟国か否かには影響されない。何故なら、慣習国際法の法理によるから、である。

国連憲章は数多ある国際法のほんのごく一部に過ぎず、日本が主張する北方領土の領有の正当性は一般国際法に拠るのであるから、ラブロフ外相の主張は通用しない。


また、国連憲章107条には「ソ連政府が日ソ中立条約を一方的に破棄して、日本の領土を侵略してよい」などとは、どこにも書かれていないが?


ソ連が実施したのは、北方領土の「軍事占領」であって、国際法上、占領した地域の領有を合法的に主張できるものではない。占領軍は占領地域の返還義務がある。ハーグ陸戦規定を読め。

仮にソ連が占領ではなく、領土の割譲を軍事的に実行したのであれば、それは国際法上の違法行為であり、侵略でしかない。たとえ第二次大戦の結果だとしても、だ。違法行為はいつまで経っても違法だ。

日本固有の領土を侵略(戦争)で割譲することを、国連憲章107条をもって「正当だ」とラブロフ外相が主張したいのなら、そうすればいい。世界中の誰も、それを合法とは認めないだろうがね。


プーチン大統領とラブロフ外相は、言うなれば「いい警官、悪い警官」なのだろう。悪い警官が痛めつけた所で「いい警官」登場となり、まんまと安倍の大幅譲歩を引き出せる、という寸法だな。


ロシアン・マフィアのビル不法占拠みたいなもんだ。
違法だろうと何だろうと、決して出て行かない。


領土返還を協議するなら、主権・領有権は日本に、現状維持の施政権はロシア(既に居住しているロシア人が多数存在するので)に、といったことなら、まだ分からないでもない。だが、安倍は自分の名を遺そうってことに必死で、外交交渉には全く向かないのだ。日本の悲劇はここにある。

沖縄県の国地方係争処理委員会への申し出は全く無意味で危険

沖縄県側が、又しても、罠にハマって「意図的に負ける道」を選んだようだ。


https://ryukyushimpo.jp/editorial/entry-842164.html

<font color="blue">地方自治体に対する国の関与を巡り、争いが生じた際にその妥当性を審査する第三者機関が係争委だ。3度目の今回は国の決定が法的に正しいのかを踏み込んで判断してほしい。

 県は係争委への審査申出書で(1)沖縄防衛局は行政不服審査制度で執行停止を申し立てることはできない(2)国交相は内閣の一員であり、防衛局の申し立てに対して判断できる立場にない―と指摘した。

 国の機関である沖縄防衛局が、本来は私人(国民)の権利救済を目的とする行政不服審査制度を使って国交相に承認撤回の効力停止を申し立てた。これに対し全国の行政法研究者110人が「違法行為にほかならない」と声明の中で断じている。さらに国交相がそれを審査するというのも、身内のお手盛り以外の何物でもない。結論ありきの出来レースだった。

 係争委による過去2回の判断のうち、15年は翁長雄志知事が取り消した辺野古の埋め立て承認を国交相が効力停止にしたことが審査された。係争委は防衛局を「私人と同じ立場」とする国交相の解釈に疑問を呈しながらも、「審査の対象に該当するとは認められない」と知事の申し出を却下した。

 16年には、国交相が知事による「埋め立て承認取り消し」を取り消すよう是正の指示を出したことを受けて、翁長知事が、国による「是正の指示」を取り消すべきだとして審査を申し出た。係争委は国と県の協議を促し「普天間飛行場の返還という共通の目標の実現に向けて、納得できる結論を導き出す努力をすることが最善の道」との見解を示したものの、国の是正の指示が適法か否かは判断しなかった。
</font>

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気持ちは分かる。国のした行政不服審査法上の審査請求は、法7条2項の条文の通りに除外されているという解釈が当然だ。そのことと、今回の係争委への申し出は、別の話である。沖縄県側が、自ら法律上の「誤り」を実行するのはおかしい、ということだ。


そもそも、何度も指摘しているが、国地方係争処理委員会の役割には範囲・限度があり、何でも審査対象となるわけではない、ってことなのですよ。どうして、そこを見ないのですか?


直近でも、記事で指摘しましたでしょう?

10月>https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/3468d4aaf9ff4dc3e11b7c5f7db2244c


地方自治法 245条には、次の号があります。


三 前二号に掲げる行為のほか、一定の行政目的を実現するため普通地方公共団体に対して具体的かつ個別的に関わる行為(相反する利害を有する者の間の利害の調整を目的としてされる裁定その他の行為(その双方を名あて人とするものに限る。)及び審査請求その他の不服申立てに対する裁決、決定その他の行為を除く。)

 

15年の執行停止決定について、同様に審査の申し出をしたものの、「門前払い」だったのはおかしい、とかいう話ではなく、条文上でそのように決められているわけですから、係争委は「執行停止や裁決」といった事項については審査対象とできない、って言っているんですよ。


国地方係争処理委員会は、第三者機関だから、みたいに思って、何でも審査してくれて返答をするのが当然って思っているのかもしれませんが、それは間違いです。顧問弁護士みたいなものとは違うんですよ。


執行停止という国交大臣「決定」は、審査から除外される、というのが、地方自治法で定められているんですよ。法に基づき職務をやれ、って県側が求めるのに、どうして自らがそれを破り冒すわけですか?


執行停止決定について、係争委が審査対象ではない、と返答するのは、法律上は全く正しく、その通りなんですよ。「踏み込んで判断してほしい」って社説子は述べるが、そんなことを言うと国に都合のいい解釈だけを出してこられたら、どうするんですかね?


沖縄県側の主張を言いたいのなら、執行停止についての取消訴訟を提起して、裁判上でやるべきですよ。それは行政事件訴訟法上で、有効な手段だから、だ。


しかし、国地方係争処理委員会に対する申し出は、無効なんだってことが、一目瞭然で審査するまでもなく、簡単に分かることなのに、どうしてその無意味な行為をするんでしょう?


和解後の新たな「是正の指示」は、明らかに罠であり係争委は「同一の関与」として否定すべきものだったし、国が裁決権をも消滅させたのに是正指示を認めることは異常だったのに、国に対して違法の「勧告」を出せなかったような連中なのですよ?


係争委は、沖縄県の味方なんかしてくれる組織ではないんですよ。
防衛局のした審査請求は「有効」って万が一示されたら、その時はどうするんですか?

これを裁判で争う、ということの意味を考えているのか?
被告は、国交省ではなくなるんですぞ?
係争委が被告になるのでは?

その意味が分かっているのか。
防衛省国交省のした違法行為は、裁判上でどのように取り扱われることになるのだね?


どうして、これが分からないのか?

本気で、勝つ気があるのか。

よく考えて下さいよ。

係争委の出した結果如何で、その先の不利益がどうなるか、裁判ではどうなるのか、何を争えるのかよく考えるべきだ。

 

戦い方を間違っていますよ。

このままでは、前回の和解で騙されて、その後の裁判で煮え湯を飲まされた時の二の舞ですよ。


直ちに、係争委に出した申し出を取り下げるべき。
裁判所で争う方が、まだマシです。

続・出鱈目アベ政権のインチキ執行停止決定

前からの続きです。

まずは、石井国交大臣の出した執行停止決定の続きから。


3 執行停止の要件該当性について

(1)本件埋立てでは、日米間の合意の下に、普天間基地代替施設として提供する飛行場の建設を目的として、約1.6平方キロメートルを埋め立てるというものである。本件撤回は、埋立てをなし得る法的地位を喪失させ、その効力が維持される限り本件埋立てを行うことができないという損害を事業者たる地位にある申立人に生じさせるものである。

 こうした状態が継続することにより、埋立地の利用価値も含めた工事を停止せざるを得ないことにより生じる経済的損失ばかりでなく、普天間飛行場周辺に居住する住民等が被る航空機による事故等の危険性の除去や騒音等の被害の防止を早期に実現することが困難となるほか、日米間の信頼関係や同盟関係等にも悪影響を及ぼしかねないという外交・防衛上の不利益が生ずることから、「処分、処分の執行停止又は手続の続行により生ずる重大な損害を避けるために緊急の必要があると認めるとき」に該当するという申立人の主張には理由がある。

 よって、本件撤回の効力を停止する必要性は高いといえ、行審法第25条第4項の要件を充足するとともに、処分の効力の停止以外の措置によって目的を達することができるとき(同条第6項)には当たらないものと認められる。
========

執行停止理由として、

ク)埋立地利用価値等の経済的損失
ケ)普天間飛行場周辺住民の事故の危険性や騒音被害
コ)日米同盟等信頼関係(外交・防衛上)の不利益

を言うものであるが、これは前回H27年10月に防衛局が執行停止申立て及び審査請求した時と同じ内容であり、審査庁たる国交省のいう執行停止の決定理由も同じであった。
つまり、石井国交大臣が自らの手で一度した「執行停止決定」の理由はク)〜コ)であって、それを「敢えて」わざわざ自分の手で取り消したのである。

代執行訴訟の和解は、裁判上の和解であって、審査請求の取下げが和解の必然ではないことは明らかで、少なくとも審査庁には「職権で」執行停止は継続できる権限を有していたし、防衛省が審査請求を取り下げるべき理由もなかった。

国が言うように、ク)〜コ)が真実であり、本件埋立事業の停止が本当に「重大な損害を避けるために緊急の必要がある」というのであれば、執行停止決定を石井国交大臣が自ら取り消す理由もなければ、防衛局が審査請求を取り下げる必然性もなかったのである。

しかし、国が自らのした執行停止を取り消した以上、それを再度決定するには、同一の理由はあり得ない。そのような潜脱が行政や法の安定性を破壊してるのだ。


以前に国が主張した内容は、まるで変わりがない。

代執行訴訟時点(15年11月)の国の主張
https://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/d9f5c109c70e3acdc78a38513a62f3ec


普天間飛行場周辺の被害については、防衛局の審査請求でも代執行訴訟の訴状でも、何ら変わることなく述べられていたのであり、これを同一の理由として、国が自分で棄てた権限・利益(和解後、全部取下げて、取り消し)なのだから、請求できるわけがないのだ。

国曰く

普天間飛行場における航空機による訓練では飛行経路が市街地上空で、普天間飛行場の周辺住民や上記各施設の利用者等は航空機事故の危険性や騒音等の被害にさらされる事態が常態化している。万一、航空機による事故が発生すれば周辺住民等の生命・身体に甚大な被害を及ぼす危険性が高くその危険は具体的なものとして現に存在しているといえる』

というのだから、日本国政府は住民の危険性を十分認識していながら、何らの対策を措置することなく漫然と20年以上も放置をしてきたことは明白であり、住民の安全確保は、「海面の埋立」とは無関係に早急に措置されるべきことであって、国は不作為の謗りを免れない。

危険性の除去は、埋立事業とは全く独立の事柄であって、国には放置を正当化できる理由がない。



続きを見る。

 なお、処分庁は、申立人が本件撤回から1箇月半以上の期間にわたり本件審査請求及び本件申立てをしなかったことなどを指摘して、行審法第25条第4項の「重大な損害を避けるために緊急の必要がある」とはいえないなどと主張するが、前記の損害の内容等に照らせば、本件撤回から本件審査請求及び本件申立てが行われるまで1箇月半以上が経過したからといって、引き続き生じる損害の重大性やその回避の必要性に何ら変わるところはなく、その他指摘するところを踏まえても、行審法第25条第4項の要件該当性は否定されるものではないと解される。

(2)処分庁は、行審法第25条第4項ただし書の「公共の福祉に重大な影響を及ぼすおそれがあるとき」に該当する旨主張するが、これに該当するか否かは、処分によって生ずる損害と比較較量して、なお公共の福祉を保護する必要があるかという見地から判断されるところ、前記(1)のような損害に比較してなお、「公共の福祉」として優先すべき事項があるとまでは認められない。
 また現段階で、同項ただし書の「本案について理由がないとみえるとき」にも当たるとまでは認められない。
(3)以上より、本件撤回の効力を停止する必要はあると認められる。

=======


全部、自分に都合のいいことだけを並べてみたよ、という内容である。過日、公表された最高裁の所謂「ラストストロー判決」みたいなものだ。誰からも覆されることがない、という圧倒的有利な立場を利用しているに過ぎない。

「緊急性がある」というなら、前回執行停止の時だって、取り消すことなどできなだろうに。バカが政府にも司法にも浸透してしまうと、理由とか論拠とか論理的整合性には無関係に、「批判には当たらない」論法でもって、全部否定でき自分が好きな言いたいことだけを並べると、それでいいことにできてしまう、という愚劣国家になっておるのだよ。


信じられないほどの巨大な矛盾があろうとも、「知らない」って言えば全部流せる、なかったことにできる、って程度に、狂気の世界となっているわけだよ。そのような輩が「国際法が!」とか「最高裁判例で合憲だ!」とか、インチキの出鱈目だけを言い続けるという、本物のバカとクズの支配する国になっているわけですわ。

あるのは、開き直りだけw
「別にかまわない、だって、どうせ誰も罰することができないので」


理由も説明もなくても、単なる決め付けだけで文書作成ができるのだから、これはまあ、本物のバカの無能官僚でも簡単に作れる、という代物だろうな、ということである。法の支配、完全崩壊ww