怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

The Economist誌に捧ぐ「原発レクイエム」

合理的かつ論理的思考を持つ英国人からすると、日本の原発離れを奇異に感じるのも無理はない。東日本大震災という未曽有の災害に恐怖し、福島原発事故の惨状を目の当たりにしては、日本人が尻込みするようになったという印象を持たれることは仕方がないことだ。
けれども、日本国民の大多数が短絡的で感情的だから、こうした選択をするようになったのではないはずだ。恐怖に戦いて、原発を止めたいと言い出したわけではない、ということである。寧ろ熟慮の末、選び出されたものであろう。


日本国内において、福島原発事故直後に「現在稼働中の原発を今すぐ止めろ」という声は殆ど目立たなかった。大丈夫なのか、という心配の声はあったかもしれないが、もう一度点検せよ、ということはあっても、動いている原発をすぐ止めろ、ということにはならなかった、ということである。あれほどの事故を見ても、自分たちの周りにある原発を止めようとしていた人は少数派であったろう。
事故から2カ月ほど経過した5月になってようやく浜岡原発を止めるべし、ということになったわけだが、あれとて国民が大騒ぎしたので唐突に止められたわけではなかった。停止直後の政府内部(確か参与の民間人だった)の情報として、「米軍からの要請」ということが実しやかに語られた。それくらい意外だった、ということなのである。一般国民の願いとして止められたわけではなかった。今年になって、「ガス抜き」として止めただけ、という高官のコメントが報じられもした。一般大衆が大騒ぎをして、大規模デモをやったり暴動を起こしたりして止めさせたものではなかった、ということである。


2011年5月7日の読売新聞社説では、浜岡原発停止という菅総理の要請を受け入れるよう、中部電力を説得していた。つまり、一般国民から止めろと騒いだのではなく、マスコミや政府は率先して「止めよう」とした、ということである。理由は、巨大地震への対策が万全ではないから、ということだ。まことに正しい。その通りなのだ。これは感情論などから発生したものではなく、論理的思考によって選び出された結論なのだ、ということである。

同じく、読売社説は、次のように述べていた。
正常に運転している原子炉について政府が停止を求めるのは極めて異例だ。だが、浜岡原発は首都圏まで直線で180キロ・メートルの近距離にある。日本の大動脈である東海道新幹線東名高速道にも近い。運転中に事故を起こし放射性物質が放出される事態になれば、日本全体がマヒしかねない。静岡県や周辺自治体も、早急な安全性の向上を求めていた。中部電力は首相の要請を受け入れるべきだ。

そう、「180kmの近距離にある」と言っている。「運転中に事故を起こし放射性物質が放出される事態になれば、日本全体がマヒしかねない」と言っているのである。
現在再稼働問題で揺れる大飯原発はどうであろうか。
京都からどれくらいか。大阪市はどれほどの場所にあるのか。名古屋はどうなのだろうか。名古屋まで120km、大阪や神戸まで100km、京都や滋賀は80km圏内にすっぽり入ってしまう。それほどの近距離にある、ということだ。180kmの浜岡原発でマヒしかねないのなら、大飯はどうして同じように言わないのだろうか?


重要なことは、日本は基礎的条件が違う、ということだ。アメリカやロシアなどとは比較にならないほどに、日本は小さい、ということである。重大な原発事故が起こった国はこの3つだが、日本だけがとりわけ小さく狭いのである。土地を放棄して遠くに離れればどうにかなる、という問題ではないのだ。原発からの絶対距離、これが圧倒的に近すぎる、ということだ。土地が非常に狭い。人口密集地域や主要な都市までの距離が近すぎる、ということなのである。これは決定的な弱点である。

もう一つ、日本は自然災害がよく発生する、ということがある。特に、今回の福島原発の事故を惹起した、大規模地震である。
昨年、核大国であるところの英国で、地震発生という大事件が起こったことは記憶に新しい。ブラックプールで発生した地震で死亡者が出たからだ。日本の事故後だったこともあって、大々的に報じられていたはずであろう。その大地震とは、何とM2.2だった。英国で大騒ぎになる地震とは、そのレベルであるということだ。

裏を返せば、英国にある原発の危険性というのは、日本のそれとは比較にならないということである。アメリカやイギリスにある原子炉が地震被害によって事故がもたらされる、という危険性は、日本と比べるとはるかに小さい、ということである。日本ではM3以上の地震発生回数は、1996〜2005年の10年間の平均で年間5110回である。M3以下で大騒ぎになる英国とは、桁外れに多い、ということだ。平均で1日当たり14回もの地震が発生する、ということである。イタリアでもM6クラスで大地震という報道がつい最近あったが、日本での平均は年間約20回である。平均回数は、恐らく東日本大震災後に大幅に増加していることだろう。


つまり、M2.2程度の地震でさえ大騒ぎする英国とは比較にならないくらいに、日本は条件が厳しいということだ。基礎的条件が異なる、というのはそういう意味である。
これまでの日本の原発の歴史というのは、工学の粋を集めたものだった。原子炉技術ばかりでなく、これを支える土木、建築、材料、電気などといった広範な技術力の結晶だった。それが地震大国日本での原発稼働を可能にしてきた、ということである。先人たちは、圧倒的に不利な条件下でも原子炉稼働を可能にする挑戦を続けてきた、ということだ。その精神と技術力は、日本の原子力を支えてきた根幹だったはずだ。結果として、幸運にも大規模事故には見舞われずに済んできたのである。

しかし、時代と共に、先人たちの偉大さは失われていった。苛酷な条件下での、絶対に事故を起こしてはならないという、厳しさや緊張感は失われていったのだ。次第に芽生えたのは、慢心だった。その油断が、今回の事故を生んだと言ってもいい。


現在、日本で原発再稼働に疑問を感じている最大の理由は、多分「原発が怖いから」といった漠然とした直情よりも、信頼感の喪失によるものだろう。原発を管理・運用・監督する者たちへの、疑念である。多くの国民を欺いてきたことを知るに至り、「彼らは信用できない」という結論に達したが故に、今の状況を生んでいるということだ。地震大国日本で、彼らには原子炉を任せられない、という合理的判断が生じた、ということである。


事故に際して、どうしていいか判らない、という人たちが原子炉を預かっているということを知ってしまった。そして今も、「どうすればいいか知っている」人間が国民の前に登場して、理路整然と説明することが一度たりともないのである。こんな国が他にあるのだろうか。国民の目には、誰一人、「どうすればいいか知っている」という人が見えてこない、ということだ。


恐らく、原子炉ばかりではなく、核ミサイルも管理している英国においては、日本のような無様な姿を晒すことはないのであろう。だからこそ、原発を続けるという決断ができるのだ。けれども、日本は英国よりもはるかに危険な場所なのだ。それ故、もっと厳しい管理・運用ができる人間と環境が整っていない限り、原発はやるべきではないということである。残念ながら、日本にとって限界点となってしまった、ということだ。これを解決できる能力は、今の日本にはない。福島の事故がその限界を示したのだ。原発が、今の日本には不向きなお荷物となった、ということである。

多くの日本国民は、冷静にこうしたことを見極め、遂には再稼働の反対に回ることになった、ということである。極めて合理的思考によってもたらされた論理的帰結が、「さよなら原発」だったということだ。
一般大衆を欺き続けてきた罰が、これから下されようとしているに過ぎないのである。