怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

原子力規制委員会に責任転嫁する安倍政権

民主党時代の野田政権が大飯原発3・4号機の再稼働問題で紛糾し、大幅に支持基盤を失ったことを恐れているのが、現在の与党―自民公明だ。


そして、安倍総理は自分が猫の首に鈴をつけなくない、ということで、責任を回避し逃げ回っているのである。



小泉元総理が言っていたように、安倍総理ならば「原発中毒の人々」を政治的に抑え込むことが可能なのだ。だが、原発中毒派はマスコミや政界・官界・経済界と広く浸透している為、その反撃を恐れているのであろう。


同時に、推進と明言するのも困難なので、現状は「棚上げ」状態をキープしているに過ぎない。決断できていないのである。ここで再稼働に踏み切ると宣言してしまえば、増税ダメージと一緒に原発問題の再燃で、支持率を低下させることになるのは、目に見えている。



政治的に決着を付けるべきなのは明白。
国民に説明責任を有しているのも、安倍政権であり与党である。もしも本気で原発を従前に戻して、元通りに動かし続けるんだ、と決意があるなら、それを国民に訴え説得すべきであろう。



それができてないのだ。

原子力規制委員会が国民に分かり易く説明し説得しなければならない、なんてことは、そもそも想定されてなどいないであろう。だったら、政治家なんか必要ない。


政治が自らの責任を放棄しているので、原子力規制委員会としても困っているだけである。NSR原発の再稼働を決めました」という形に陥るのを防ぐ為には、何とかして政府与党の決定なり決断を待たねばならない、ということになっているわけだ。


だから、とりあえず時間を稼ぎ続けねばらない。
それは活断層調査であったり、その他であってもよいわけであるが、兎に角決定は政治サイドで行ってくれ、というのが本音である。それが出てくるまでは、いかなる結論も導き出されることはないであろう。


本当に止める、となった時には、使用済み燃料保管場所として暫くは活用せねばならないし、一気に廃炉にもできないから、長期間かかるのも回避できない。いずれにしても、短期的にどうにかできるようなものではないだろう。




それから、拙ブログ見解は以前から述べているように、再稼働は厳に反対である。許されるべきではない。PCBやアスベストと何ら変わらない。


原子力政策は、国民に真実を告げずに隠してきた結果が、過去20年の不祥事連発ということを生んだのだ。福島原発事故は、隠蔽と不祥事の集大成であったと言ってもいい。


たとえ女川や福島第二が福島第一のようにならなかったからといって、それは正当化されるものではない。運が良かった、というだけ。


設計時、更には、その後の検査等々でも、「予測できていなかった」という時点で、科学技術や知識の敗北である。


ヤブ医者というだけである。
東電も原発政策の規制庁も同様だ。


まともに診断もできなけりゃ、手術もできない、そのくせ「手術だけはさせろ」と言うのだ。何の為かと言えば、「金儲けになるから」だとよ。愚かにもほどがある。


自分の手術を担当してもらう医者が、「想定外だった、事前に思ってたのと全然違った、緊急事態に陥っても何らの対処も満足にできず、一生寝たきりになって、死にかけた」という人だったらどうするんだよ。任せられるのか?



いくら地震への対策を立てても、建屋が壊れなかったとしても、事故が防げるようになるわけではない。地震では、格納容器は健全だった、圧力容器も大丈夫だった、ということだったとしても、他の部分が耐えられなければ、また危険な状態に陥る可能性がある。


それは、配管類であったり、電力供給の配線類であったり、非常用ディーゼルの起動・操作部分であったり、弁の開閉を行う装置であったり、ということがある。


本体を頑丈にすれば、建屋なり容器なりが壊れなくても、大きな部分以外の脆弱性が対処できないと意味がないのだ。


電源喪失となったのは、そもそもが外部電源がダウンしたからだ。それは送電塔の倒壊であろう?


要するに、そういうことなのだよ。
例えば、ベントを作ってもそれが機能しなければ無いのと同様。弁口の接合部が変形したり壊れて動かなくなれば、弁操作が不可能になって「ついてない」のと同じ状態だから。


電力だって、外部電源が生きていても、配電盤などが揺れで配線ショートなどが起こって焼損してしまえば、電力喪失と同じだ。非常用ディーゼルだって、過去に幾度となく起動しなかったことがあり、原子炉手動停止に至ったことがある。そういう故障は、割とデリケートな原因で起こってしまうわけで、その程度の「多重防護」というのは信頼性に欠ける。



だから、地震に建屋が耐えられたとしても、原子力プラントの機能全体が維持されているかどうかは、不確かである。それを今後もずっと使い続けたいとは到底思えない。