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法も経済学も知らぬ者〜2

昭和40年代まで日本でも採掘されていた石綿であるが、石綿規制が法的に行われるようになったのは40年代末くらいである。環境庁が誕生する前くらいだ。当初の管理濃度水準は、2mg/cm3だった。それが時代と共に低濃度基準へと変更されていったわけである。
同じ体積当たりで、2mg→5本→2本→0.15本といった具合だ。
こうした数値基準変更は、健康被害状況の新たな知見反映であり、遂には輸入や使用が全面禁止となったのである。


池田式論法によれば、これら変更は全て違憲だ、ということだな。不遡及原則に反する、と。愚かなり。


そもそも、何故政府規制が存在するのであろうか?
外部不経済ということがあるから、である。


企業は石綿使用で利益を得るので、厳しい基準変更を自らが行う動機は乏しい。しかし、被害者が拡大し賠償額が大きくなれば、企業存続に関わる問題となるわけである。現実に製造企業で倒産した例があったわけだ。


政府規制が全くない場合には、企業が自分の責任において石綿を使用してもよいが、もしも健康被害などが生じて他者の法益侵害となれば賠償をせざるを得ないことになる。すると、企業が石綿を作って得る利益と、賠償を支払う損失との比較において、作らない方がいいという経済学的理由で石綿使用は停止されうる。その賠償の判断の基礎となるのは、社会の状況(逸失利益額等々は社会で異なる)であったり、健康被害に関する知見といったことである。

政府規制によって、賠償コストを払わずに逃げる企業を封じる、ということになる。政府が規制していなくても、通常の私企業は製造責任などから賠償コストに耐えきれず、製造しない方がよいということになってしまうのだ。企業が「被害を生じることを知っていたのに、何らの対策を講じることなく製造や使用を続けた」という事実の時点で、違法が確定する。


仮に製造設備や輸入在庫が無駄になる、ということがあるとしても、それを使用した結果生じる将来時点での損失額(賠償額)の方が甚大であるが故に、政府規制が行われたらそれらを処分するよりないということなのだ。


PCBや石綿が消えた理由というものは、そもそも市場の失敗から政府規制となり、損失コストが大きかった為に「価格がゼロ」となったのだ。すなわち、生産量がゼロになってしまったということである。これが全面禁止となっている現在の状態である。これらの処理コストは、50年前には「目の前に存在していなかった」ものだ。製造企業も、PCBや石綿含有製品の製造企業も、それら将来コストを払ってはいなかったのである。だから、利用時点では安価に流通していたし、製造可能だったわけである。


しかし、将来発生するであろう汚染処理や被害賠償コストを製造価格に反映していたとしたら、使用可能な価格とはなり得なかった、ということである。PCBや石綿の使用コストが大きいことが分かった為に、それまでは高価格であったはずの代替品に切り替わったのだ。経済学的な理由は明白である。汚染や被害をコストとして製造価格に反映した場合には、あまりに高額になってしまうので代替品との競争に勝てないが故に、それら製品の取引市場は消滅したのだよ。


石綿の製造企業は政府規制によって政府に賠償させたのか?
例えばナイガイ、ニチアス日東紡なんかが、そういう違憲立法による賠償金を政府からせしめたという事実はあったのか?


池田式論法によれば、製造工場を作ったりJIS規格で昔は認められていたりしていたものは、「現在でも立派に有効なんだ」ということらしいので、政府規制のせいで在庫を抱えたり製造設備が無駄になった企業というのは、「行政の横暴だ、違憲立法だ」ということで訴えるとカネが取れるらしい(笑)。

池田や安念の言い分に従って、電力会社はすぐさま原発を動かすといいですよ。彼らの立論によれば、合法だそうで。しかも、行政が原発の運転を止めていたのは違憲だそうなので、損害賠償請求訴訟の提起をすればきっと勝てることでしょう。
大爆笑。

電事連・電力会社の皆様、早速やってみればいい。池田の意見が正しいと思うなら、やれるはずだ。


池田信夫は法学について全く信頼性がなかったわけだが、同じく経済学分野においても「やっぱり信頼性なし」だったな、ということが分かったわけである。


(つづく)