怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

法学者たちの「違憲」表明について

安倍総理が、新たな安保法制を夏までに実現させると米国議会演説で大見得を切ってしまった為に、現在の窮状をもたらした。

憲法審査会での法学者3名が揃って「違憲」との見解を表明したのに続き、大勢の法学者が同じく「違憲」との立場を支持した。マスコミのアンケート調査などでも、やはり9割以上の法学者たちが違憲を支持している。
これにより、無法を強引に押し付ける安倍政権の姿勢が世間に知れ渡り、今後の審議は暗雲に包まれることとなった。


安倍総理が自ら会見を行った時、いかに正当な根拠を持った法案なのかを滔々と語ったのに、それは国民を欺く詭弁に過ぎなかったのだということを、憲法学者たちの思いもよらぬ告白によって知らされたのである。


きついお灸をすえられた政権は、何とか言い訳を見出そうと必死になっているが、いずれも有効な反論にはなっていない。逆に、稚拙な言辞を弄する閣僚や総理補佐官らの失態を目立たせるだけになっている。閣僚も与党議員たちも「単に強弁するしか能がない」ということを実証してしまった。


遅かれ早かれ、政府与党の穴は露見していたであろうから、これを機に出直すべきと多くの人が考えていることだろう。


拙ブログでの見解について、以下に述べておきたい。

まず、多数派が正しいのか、という点についてだが、必ずしもそうだとは思っていない。過去のブログ記事で書いてきたことなので、ここでは触れない。また、意見表明者の信頼性についてであるが、例えば長谷部恭男教授や小林節教授については批判してきた経緯もあるのであり、全幅の信頼ということにはならない。それに、権威主義的態度というのには、拙ブログではあまり同調的ではなかったと自己評価しているので、「東大の長谷部教授が違憲と言うのだから正しい」みたいなことを支持したりもしないだろう。



・長谷部恭男教授に関する記事
13年12月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/308038dda28248a10cc9babf9556a3b2


安念潤司教授に関する記事
14年1月
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/8da760d94d6e08b3bcd32f30c09ab5b5
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/47abaa3da2f8bd403eb50c75b593efcb
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/77a9b7a8c38a0b2586ffae141f394084


おまけ、池田信夫、諸葛宗男、澤田哲夫ら
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/fadef836218ebfcb53feb5db1fb48bdc
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/1a32260990ed127b80b944a9f0830276


もう一つおまけ、岡本孝司、石川和男ら
http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/dad1f2c2ca2a1bb1f9195bb4712a0b4b



冒頭の長谷部教授についての参考記事中では、次のように書いた。


学者の言い分が本当に正しいのだろうか?
政治的に立ち回る人なら、いくらでも態度を変えられるかもしれない。だから、東大教授がそう言ったから、というだけで信じることなど到底できない。その人をどう評価するかということが、まずある。
学者間で言い分の対立することであるなら、「学界においてもまだ評価が定まっていないのだな」ということが分かるだけ。つまりは、曖昧とか、不安定ということだ。ほぼ90%以上の専門家の人が同一の回答をする、ということではないと分かるだけである。それは、司法・法学分野だけではなく、経済学でも同じ。これも散々言ってきたわけだが。
なので、長谷部教授の見解はある一つの見方、という受け止め方にしかならないだろうな。

=======


法学者たちの見解を「そういう見方」だと受け止めても、9割以上がその結論に賛成している場合には、これを覆すのは容易ではない。
政府与党が行うべきは、多数派の意見を無視するのではなく、きとんとした反論を法学上の理屈で行うことなのである。愚かな反論だけ並べるからこそ、事態が悪化しているということに気付けないのだな。


「アンケートで9割以上の法学者が違憲を支持していますよ」
  →「学者の意見は無関係」
  →「俺ら議員の方が昔から考えてきた」
  →「判断は最高裁だから無関係」
  →「賛否の数は関係ない」


こういう反論が無駄であり、愚かしいということが分かっていないのである。
ネット上でも見かける、強弁、決め付け、という連中と同じ。


当方は、圧倒的大多数の法学者たちが違憲を支持しているということ以外、これといった論点を知らないので、少数派がどんな説明を行ったのか全く知らない。政府与党なり合憲支持の学者なりが、個別の論点について具体的に有効な反論を示せない限り、正当性など誰からも認められないであろう。


一応、拙ブログでの考えについて、若干述べたい。


1)多数意見であること

少数意見の方が正しいということもあるだろう。なので、一概には多数派が正しいと断定できない。けれども、無視できないし、尊重されるべきものであると考える。大陪審でも、多数意見が採用されるわけだし。
まず、少数派が正しいと考えるなら、多数派の出す論点について網羅的に具体的な反論を提示し、それが説得的であるか説明として妥当・合理的といったことが多くの人に理解されない限り、採用されることはなかろう。
多数派の意見を無視する場合には、結果として「横暴」とか「専横」といった評価しか出てこないだろう。今の政権がやってるのは、これ。


2)違憲審査は最高裁のやること

確かにその通りなのだが、9割以上の憲法学者違憲と言うものを、最高裁が全く逆の判断を下すだろう、と推定させるには、あまりに無理がある。
法学者は憲法判断の意見を言うな、と言わんばかりの姿勢が、大きな反発を招いたのだよ。要するに「お前ら、学者ごときが何を言おうと関係ねー、最高裁は政府の味方だからいつも合憲と言うに決まっているんだよ、政府が決めたことには永久に逆らえないんだよ」という本音が出てしまい、それを見透かされたということだな。
「総理(=政府)が言うんだから、正しいんだ、合憲なんだ」というのと同じ。簡単に言えば「俺がルールだ」と。これを誰が信じると?


最高裁違憲審査をするとしても、通常の裁判では違憲か合憲かの判断には触れられない。仮に今の戦争法案が立法されたとして、どうやってその違憲判断を最高裁に仰げると?
具体的に不利益を被る人が行政裁判を提起する必要があるとして、原告適格とか訴訟利益でほとんどが弾かれてしまうのでは?
特に、現実の運用前に違憲判断を仰ぐ機会など、ほぼ皆無に等しいのでは?そうすると、政府与党が「合憲と言ったから」という理由で、現実には立法措置が取られてしまうわけで、国民には合憲か違憲かの判断を得ることが事実上封じられてしまうも同然である。


そのような点からも法学上の研究や議論は有益であるし、形式的には存在するであろう最高裁違憲審査であっても、事実上は国民に利用できる機会は殆ど得られないことから、法学上の議論がそれに代わるという役割が期待されよう。


したがって、最高裁違憲審査があるから、という政府与党の意見は現実的ではなく、国民の憲法判断に関する検討機会を奪うに等しいものであり、妥当性を欠いている。


そもそも内閣総理大臣が、自信を持って「合憲である」と確信しているのであれば、違憲だとする法学者であろうと議員であろうと誰であろうと、合憲論でもって相手側論点を退けられよう。それを実行すればいいだけである。
なぜ、真正面から議論を受けて立たないのか?

それは、講学上の論点で勝てないから、ということではないのか?
そうではなく、政府の見解が正しいというのなら議論で勝てるはずなんだから、具体的に反論すればいいのだよ。