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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

過剰な供給力が生む賃金低下と利益率悪化

また例で考えてみよう。
今、弁当屋がある。甲と乙の2軒だ。ライバル店ということだな。甲は「定食弁当」を500円で売っている。乙もこれに対抗して500円の「ランチ弁当」を売っている。甲は、乙に競争で勝とうとして、値下げに踏み切った。定食弁当を450円に下げた。値下げ原資は、野菜を一括大量購入することで得た。その代り、定食弁当を今までよりも2割多く売らないと、赤字になってしまうという水準になった。
「規模の経済」を考慮すると、戦術としては間違っているわけではない。生産量が増加すると、コストが低減される。供給が増えることで、需要を生み出す、と。そうして、甲は販売量を増加させた。乙に勝てるかな?

一方、乙はシェアを食われてしまったので、対抗してランチ弁当を420円に引き下げることにした。甲の戦術を研究して、甲でも材料の大量購入で価格を下げることに成功した。これに加えて、人件費を削減し、30円分の優位を生み出すことができたのだ。こうして、価格競争は続くのだ。

これが繰り返されると、どうなると思うか?
「規模の経済」を追求してゆくと、大量生産が必須となる。売り切らなければ、利益が出ない。コスト引き下げはある程度達成されるが、それにも限界というものがある。原料供給側は、「赤字」なのに売るということになってしまって、経済学の理屈には反することになるから。なので、原材料コストの引き下げ競争がある水準に到達してしまうと、甲も乙も価格競争の優位性はなくなる。残るは、人件費のみ、という所に行き着くわけだ。

労働の価値というものは、あくまで相対的評価であり、それが「その値段でなければならない」という理由は、明確には存在してない。ある企業のCEOの給料が1億ドルだとして、その労働価値は算出基準が存在するわけでない。農業労働者の月平均収入が10ドルだとしても、CEOの賃金と比べようがない。「どうして1億ドルなのか、片や10ドルなのは何故か」という根源的な問いに答えられない、ということだ。「そういう相場になっているから」くらいしか、言いようがないのだ。

そうすると、労働の価値に絶対基準がない、ということは、下げることが可能になってしまう、ということでもあるのだ。「事務次官の給料はどうして2200万円でなければならないのでしょうか?事務次官の仕事の価値は本当に2200万円もするのですか?」という問いに、答えようがない。「そんなに高いわけないじゃん」という評価には、対抗できないのである。そうすると、原理的には、引き下げはいくらでも可能ということになる(笑)。
そうやって、人件費引き下げが正当化されてきた、というのが、日本のデフレ要因となってしまった、ということである。


規模の経済を求めることで、デメリットも発生するのだ。
それは、「そんなに需要があるのですか?」という問題である。弁当屋が2軒あって、共に規模拡大を行い、コスト引き下げを行うと、次第に弁当が大量に出回るようになる。定食弁当もランチ弁当も250円となった時、双方の販売数量が以前の3倍に増えているとして、利益はどうなったのか、というのが問題なのである。普通は、弁当が値下がりしたからといって、一人で何個も食べられるようになるわけではないから、供給量増加でその通りに需要が増えるわけじゃない。頭打ちになる限度というのがあるだろう。

そして、甲乙どちらも利益がほぼゼロ、ということであると、勝者は「消費者」ということになる。これが、経済学の理屈でいう「競争市場」だ。かつての定食弁当やランチ弁当への「ありがたみ」みたいなものは、消滅する。イメージが低下する、ということだ。安物の、いつでも食べられる弁当、みたいになってしまって、商品価値は値段の通りに下がってしまった、ということだ。

更に、弁当を買うのは、実は甲と乙の従業員であり、弁当の値段が下がった恩恵を受けるのが消費者である従業員だが、それは同時に賃金引き下げに反映されてしまうので、実際には「得をした」ということにはなっていないのではないか、ということだ。

賃金低下による購買力低下が価格下落と同時に起こるから、結果的には大して得にはならない、ということである。


日本のテレビなんかを考えると、こういうのに近いことがあったのではないかと思う。品質とブランドイメージというのは、最も「商品価値」があったのに、それをわざわざ自ら捨て去ったようなものである。しかも、シェア回復みたいなことだけを考えると、規模の拡大すなわち過剰な設備投資によって供給力が多くなってしまう。それが過剰な価格競争を生み、利益の出ない、というより「マイナスの」安物へと転落していったのではないか。


ブランドは、ブランド価値を守らねばならない。価値を高めなければならない。
だが、日本の電機企業群はブランド価値を自ら下げた。「やっぱり日本製だな」という価値を守れるなら、極端な話、分業体制にしたっていいはずなのだ。
冷蔵庫を作るのが得意な企業が専業っぽくして、OEMでブランド名を変えて他社で販売してもいいはずなのだが。冷蔵庫はそちらで、洗濯機はこちらで、エアコンはここで、みたいに、重層的に「協働」戦術でもいいと思うんだけど。それなら、設備投資や人件費などの重複が避けられるはずだし、利益率が異常に低くなってしまうというのも防げるのではないか。


日本製であることの付加価値とは何か?
デカイ、重い、電力消費の無駄、といったものと違って、軽量小型で故障が少なく省エネ、というなら、それでも十分価値を生むはずなのだが。勿論、所得水準の低い、現地の実情にあった商品開発も必要であるかもしれないが、ブランド価値というのは「信心」みたいなものなので、それが失われてしまうと競争力は減退するだろう。

意味不明の「大きなお世話」的な多機能を持たせなくてもいいから、圧倒的に異なる「何か」こそが付加価値を高めるはずだ。マネの難しい「何か」である。それが失われると、低価格競争に巻き込まれるだけで、競争力を失うであろう。それこそ、利益ゼロやマイナスとなるなら、その事業そのものの存在意義は失われているのである。
規模の経済を追求するあまり、巨額設備投資で供給過剰に陥って苦戦するなら、自らは製造を止めて、勝ってる企業を買収する方がいいに決まっているのである。競合他社がやったことと同じようなことをやるだけでは、互いが自滅への道をゆくだけであろう。ヘンな横並びが、互いの首を絞めることになるのだ。