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柏木孝夫氏の論説に反論する

人間というのは、長年生きてきたからとて必ずしも賢くなるわけではない。むしろ、愚劣な人間というのは、愚かさに拍車がかかり、自省を失う代わりに過剰な自信と頑迷を強化してゆくのかもしれない。そのような例は、枚挙に暇がない。特に政治や行政の世界に関わる、60歳以上の人々を対象とした場合には。


さて、とても興味深い記事を拝見したので、取り上げてみたい。
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120618/233481/?P=2


柏木氏は、エネルギー政策などにも詳しいようで、政策作りへの関与も深いようだ。要職を歴任し、経歴も申し分のない方である。公益法人の渡り、失敬、理事長職をいくつか経験している、東工大特命教授を務めるドクターでもある。


これほどの方であっても、非常に残念な主張をされていると感じざるを得ない。これが本当に、大学で教鞭をとる博士の論説なのか、と。しかも、人生経験では、当方など及びもつかぬ方なのである。そうであってでさえ、この程度のことを堂々と公表してしまうのか、と思わずにはいられないのである。残念だ。


柏木氏の論説について述べる前に、当方の基本的考え方を書いておこう。これまで拙ブログ記事中でも幾度か触れてきたが、現状で再稼働は容認できない、というのが基本だ。しかしながら、原発中毒といってもよいくらいの方々が存在することも事実であるので、そうした方々の「稼働しないと禁断症状が出てしまう、苦しくて苦しくて耐えられない、だから動かしてくれ」という強烈な要望を全く無視するわけにもいかない、ということがあるわけです。そういう部分を考慮すると、分離した方がよいのではないか、ということで、ささやかな提案をしたわけである。
そうした存在を無視してよく、当方の希望だけ言ってよいと言うのならば、再稼働は不要、というのが当方の現時点での考え方である。


本題に入ろう。


柏木氏は、非常に強い主張をしているものと思う。それは、小見出しに端的に表れている。


 『科学的根拠のない脱原発論』


これを見た人ならば、ああ、そうだな、さすが東工大卒の博士の言うことは違うな、などと参ってしまうのかもしれない。当方にとっては、かなり違和感があった。


柏木氏は、脱原発を主張する者は科学的根拠を述べてみよ、ということを求めているものと思われる。それに比べて、柏木氏の「原発堅持論」は科学的根拠に基づいているのだぞ、ということを、暗に主張しているものと思う。


だが、本当にそうなのだろうか?
彼の言う「科学的」というのは、何なのか?
「科学的根拠」とは、どういうことなのだろうか?


当方は、思わず笑いそうになった。
それは本当に科学なのですか、という直感があったからだ。


当方の結論から言えば、それは、決して科学などではなく、科学的根拠なんてある話ではないとしか思えない、というものである。だが、柏木博士は、科学的だと言うつもりなのであろう。そのように言えば、科学だの、原子力工学だの、その他モロモロの理工学なんかの苦手な人々にとっては、信じるしかないようなことだからだ。そうすれば、決定的な優位を得られると考えているのだろう。



すなわち、本当の科学者であるなら、決して口にしないような「科学的根拠を挙げろ」という要求を柏木氏がしているようにしか見えない、ということである。



原発をどの程度維持するか、という問題は、科学ではない。科学ではないものに、「科学的根拠を挙げよ」と言うのは、ただの不当要求である。原発をゼロにするかどうかは、科学などではなく、「選択」だとしか思われない。それは、自分たちがどのような社会を望むか、ということだ。科学は、答えを教えてはくれない、ということである。科学ではないものを、博士の名の下において、あたかも科学であるかのように装うのは、これまでにも散々見られてきた「ニセ科学」の類と何ら違いがないとしか思えない。良識ある真の科学者が取るべき態度とは、到底思えないということである。



柏木氏には何を言っているのかが分からないだろうと思う。そこで、また例で書いてみることにしよう。



ある国において、テロ対策活動を軍と情報部が行っている。ドローン100機によるテロ組織構成員への国外での攻撃には、年間10億ドルかかるが、これまで毎年実施している。もしテロ組織による攻撃を野放しにしてしまうと、ビル爆破などで年間1千万ドルの被害と人的被害(人数は不明、死亡者も出るかもしれない)を受ける可能性がある。さて、ドローンによる攻撃規模を縮小してよいか?
ドローンによる攻撃は国内外から厳しい批判を浴びており、国際法との関連で違法性の問題も指摘されているので、攻撃体制をゼロ機にするか?
そうすると、テロの攻撃を受けるかもしれないので、活動費抑制の為に50機体制を維持するか?或いは、30機か?70機か?


こうした問題の場合、科学的根拠を出せ、などという人間はいない。科学ではないことが明らかだからだ。あくまで「選択」に過ぎない。「ドローンの攻撃のない社会を望む」なら、ゼロという選択をする、ということだ。ただ、選択する際には判断材料となるものが必要だ、ということである。その判断材料の中には、データとして挙げられるものもある、というだけである。


それは、あくまで選択権者が比較する際の参考資料、という位置づけであるはずだ。選択権者には、正しい情報が開示されていないと、選択に支障を来たす恐れがあることは当然だ。だから、提示される資料とかデータというものは、正しさ、真実、恣意性の有無といったことが重要になる。そうであったとしても、これは科学ではない。選択だ。どういう社会を望むかということでしかない。


柏木氏の言い分は決定的に間違っているとしか思えない、というのは、このような理由からである。柏木氏がもし要求するとしたら、判断材料として「こちらが説得されうるデータ」を具体的に示して欲しい、くらいだろう。


柏木氏にとっては、自分の判断基準での選択が絶対だ、というような過信があるのではないかと推測するが、世の中の人たちがみんな柏木氏と同じ選択をしたいかどうかは定かではない。柏木氏は、エネルギー政策に精通している部分があるのかもしれないが、主張の大部分が科学的であるかといえば、全然そんなことはない。


具体的に例を挙げよう。
彼は次のように書いている。


わたしの試算では、省エネ効果は2010年比2割がせいぜいと見ている。それも、GDP国内総生産)が伸びなかった場合に限る。もし、GDPが伸びるとすれば、2割の省エネ効果も厳しいだろう。
また、GDPが伸びないということは、税収がほとんど増えないということである。その増えない税収分を補填するために、国債を発行したり、預金を切り崩したりしていけば、ツケが巡り巡って、ついには国として破綻をきたす可能性も否めない。


柏木氏はいいところに気付いている。それは、エネルギーに占める原発の割合というものは、科学的根拠を有するものというよりも、どちらかといえば金の問題である、すなわち経済の問題だ、ということである。判断材料の主要な部分は、経済学的な思考に基づくものであろう、ということだ。彼がそう考えているなら、何故「科学的根拠」などと言い出したのかが、より一層不明になるというものだ。


そして、原発問題というのは、経済の問題として捉えてよい(=科学と呼べるか疑問)ということなら、その経済問題についてより検討すればよいのではないかと思えるのだが、彼の記述には素人っぽさが顕れていて(当方も当然素人であるので人のことは言えないが、笑)、経済の問題は不得手であるのにこうした論説を堂々と書いていることに驚くわけである。


柏木氏は「私の試算」と断りを入れているが、それは科学なのだろうか?(笑)
科学ではなく、ただの計算なのでは?
GDPだの経済成長だのと言うのであれば、もっと経済について考えれば良かったのではないのか?
柏木氏の試算には、産業構造の変化というものは恐らく考慮されていないであろうと思われる。2国が存在し、一方がアルミ精錬業だけ、一方が金融業だけの国だとすると、GDP当たりのエネルギー消費量が大きい国はどちらだと思うか?稼ぎの大きい金融の方がGDPが大きくてエネルギー消費量が少ない、という可能性はないのだろうか?


産業構造の違いとはそういう意味だ。日本のGDPに占める3次産業以外の比率は、近年であると減少してきたはずだ。かつての第二次産業というのは、海外勢の成長や追い上げによって、国内から消えつつあったと見るべきではないのか?
例えば今後製鉄業が20年後、30年後までも、国内に工場を維持できていると思うか?そいうことを考えるべきではないか、ということを言っているのである。現実に、製造業はどんどん海外移転を進めてきたわけで、そのお陰(笑)もあってエネルギー消費量、電力消費量は減少傾向だ。産業構造の変革は、影響がないとは思えないのである。


省エネというのが再生エネルギー利用を意味するものではないのかもしれないが、ピーク平準化技術が進めば、ピーク時最大電力量の確保ではなく全日での積分値の方に大きな意味が出てくるので、施設維持は少なくできる可能性は高いのでは。また、原発派が常々言うセリフに「将来新たな原子力技術が確立できるかもしれないじゃないか」というものがあるが、だったらそれはどんな分野にでも通用する理由になるわけで、風力や太陽光は不安定で使えるようにはならない、といった反論は意味をなさないだろう。


もっと重要なことは、世の中の人々が経済成長を追い求める社会ではなくてもよい、と考えないわけではない、ということがある。大量のエネルギー消費をして、社会に迷惑がかかるくらいなら、清貧でもいいと言ってる人々は存在しているであろう。社会の大多数の人々が、経済成長を求めないということを選択したいなら、原発は必要ないという結論になっても、何らの問題もないわけだ。


GDPが伸びない社会というのは、必ずしも破綻を来たすわけではない。経済学のモデルなんかで検証してもらうとよいのではないか。非常に大雑把に言うと、単なる定常状態の経済であると、収入も支出も変わらない、というだけだ。まあ、日本のような財政支出が大幅な赤字であると、政府支出減少を招いてマイナス成長になってしまうかもしれないが、それが延々と続いてゆくといずれは政府債務が減るので、その時には別な経済規模になるかもしれないけれども。


少なくとも、柏木氏の言うような「ツケが巡り巡って国として破綻」というのは、科学でも何でもない、ただの出鱈目か妄言である。科学者を自認するのであれば、もっと科学者らしい誠実な議論ができるはずだろう。博士号はダテでもあるまいに。


そして、原発政策は主として金の問題であり、原発を取りやめた時のコストとか、維持する場合のコストなどを比較するよりないのだ。温暖化問題から考えるにしても、やはり大部分はコストの問題だ。これらは、科学ではない。費用計算みたいなものでしかない。しかも、将来時点の曖昧な推測に基づく、科学的でも何でもないタダの予想数値、である。競馬の予想とどの程度違いがあるのかさえ、分からないかもしれない。


話が戻るけれども、科学ではないものを科学の装いをしている時点で、柏木氏の論説は不誠実か低レベルかのいずれかであろうと思うわけである。更に、彼の根拠となしている数字などは、これまでの固定観念の中で構築された予測に過ぎないのではないか、ということである。コスト計算にしたって、10年前には今の太陽光発電コストを予想できていたか?


では、10年前に今の携帯電話通話料やスマホのようなものの登場が予想できていたのだろうか?通信コストは、正確だったか?
インターネット接続料金は、97年時点で現在の1kB当たりのコストが予測できていたのか?
経済とか将来時点でのコストの予測というのは、所詮そういうようなものだ、ということである。非常に難しい、当たるかどうかは不明だ、ということだ。


そういう自覚もなしに、「科学的根拠を挙げよ」と臆面もなく述べる柏木氏は、原発政策の基本部分からして理解できていないのではないか、というのが、当方の感想である。
脱原発論に科学的根拠がない、というのではなく、原発政策そのものに科学的根拠なぞ存在してこなかった、ということではないか。選択の問題だ。


勿論、選択するのは、柏木氏だけではない。国民なのである。