怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

日本の経済学者がノーベル経済学賞をとれない理由

当方の感想を率直に言うことが許されるなら、「レベルが低いから」としか思えないわけだが(笑)。

経済学界の方々が色々と言い訳をいくら考えてみたって、ダメなものはダメだとしか見えない。はっきり言えば、「教える側」の問題。学生の質とか能力とか、そういうことではないだろう。教授連中に、ロクなヤツがいない、というのが、根本問題だろう、というのが、部外者のド素人から見た印象だということ。

勿論、優れた業績を挙げている研究者の方々もおられるかもしれません。優秀な先生方がおられることも否定はしません。ただ、当方のような一般人が目にする「経済学」の世界、その語を用いる連中や肩書きを付けている連中の酷さと言ったら、到底あり得ないというレベルとしか思えない。

末端とかじゃなく、それなりの水準が期待されるであろうはずの「教授」を見たって、東大で「この程度ですか」というのが、当方の印象。理系とは大違い。



それでは、「経済学の中の人」の意見を見てみることにしよう。


http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/121017/cpd1210170503006-n1.htm


世界第3位の経済大国としては意外に思えるが、経済学者からは「日本では政府が経済学のアイデアを採用しようとせず、研究者が生きた経済を直接相手にする機会が少ない」という不満の声がある。長期の経済低迷が続くなか、政府は優れた“日の丸経済学者”の研究成果を取り込む余地がありそうだ。

 「日本は経済学を現実の政策に活用する姿勢に欠ける。それが根本問題だ」。日本人の受賞者が出ない理由について、東京大大学院経済学研究科の松島斉教授は、こう指摘する。松島教授は「自分の理論を実際に経済政策にあてはめることで、生きたデータが入り、さらに研究内容が高まる。日本の経済学がレベルアップするのに必要なのは、研究費増額などの支援ではなく、こういう根本的な姿勢だ」と強調する。


この意見だけ見たって、「ああ、これじゃ、全然ダメだろうな」と、当方のような素人でさえ感じるもんね。そもそもの発想が、自分たちには責任はないが「他の誰かが悪い」というものだからだ(記者氏の意見かもしれないが、経済規模なんて何の関係もないだろうに。意外でも何でもないわ)。


主張をかいつまんで言うと、

①政府が経済学者のアイデアを採用しない
②そのせいで研究者は生きた経済を直接相手にする機会が少なくなる

だそうで。
これが大笑いだ、と言っているのだよ。


大体、経済学の論理も、根底にある実践的理屈も満足に理解できていないような、木偶の坊の学者先生に現実の政策決定をお任せなんぞしようものなら、滅茶苦茶なことになるだろう。教授クラスの経済学者のアイデアを採用なんかしたら、日本は大変なことになってしまう、というような程度の連中ばかりが蔓延っているからだろうに。

当方のようなド素人でさえ考えつきそうなことなのに、それが東大教授なんかであっても「知らない、判らない、答えられない」なんてことがある、そんな程度の連中でしかない、ということだ。


本当に研究をするというのなら、「生きた経済」なんて常に目の前に転がっているじゃないの。ノーベル賞受賞者が、政府の政策決定の立場にいた人ばかりなのか?人間の生活とか日々の活動の中に、「経済」というものは広く浸透しているでしょうが。それが「生きた経済を相手にする機会がない」みたいな言い訳をする時点で、全然ダメと分かるわ。そんなものが通用するとでも思っているのか。

研究対象は、政府の中にあるわけじゃない。
あんたらの「目の前」にあるんだろうよ。常に「いくらでも見つけようがある」というものでしょうが。データがない、というのなら、研究のデザインをすればいいだけだろう。実証したいなら、その実証に必要な証拠を集めるべく、研究の方法を組み立てて、足りないデータを集め続ければいいだけだろう。

何を言ってるんだ。
こんなのが、東大レベルなんだと。
教授ですら、この有様。ひとのせいにするな。実力のなさを認め、自覚するところから始まるんだろうよ。

例えば、「比較優位」という考え方があるだろう。そのような考え方を立論して人々に示し、現実世界でも役立てることに意義があるのだ。それは「政府内にポストがある」とか「政府の政策決定に影響力を持つ」とか、全く関係ないだろうに。つまりは、受賞できない理由付けとして①と②を挙げている時点で、「この程度の説明すら満足にできていない」ということを、実証しているに等しい。


「自分の理論を実際の経済政策にあてはめる」前に、まずはもっと小さい成功及び成果を挙げるのが先決だろう。あんたらの言う「生きたデータ」が欲しいということだけで、何らの能力もない学者連中にまさしく「人体実験」なんぞされた日には、たまったものではないわ。犠牲になるのは日本国民なんだぞ。

この程度しか思いつかない人間にやらせてみたところで、どうせ何らの答えも得ららず、見つけることもできないだろう。ある政策Aを実施したら、確かに「生きたデータ」が得られるかもしれないが、そのデータの中に意味のあるものをどう見つけられるのか、政策Aの成功や失敗といった効果判定はどのようにできるのか、そういう基本的な部分さえもできてないくせに、「ナマの経済」を与えたところで全く無意味。

「日本経済」という巨大なものに対して、「経済政策A」を実施したら、日本経済は「日本経済'」というナマの姿になりました、そうすると政策実施前と後で何が分かると思うか?
いいか、あなた方のような人たちに、ナマの「日本経済’」を現実に与えることになったとして、どうせ何も分からないんだよ。それは、政策実施前に「事前予測」が成り立っていないから、だ。過去のあらゆる面において、事前の予測というものの精度が極めて低く、説明通りになったためしなど「殆ど見たことがないから」だ。そんな奴らに、なんでナマの「日本経済」を任せられるというのか。

手術させろ、と医者が言ったとして、やる前には「やってみなければわかりません」と答えたら、どうする?「実際に手術させてもらえないと、予後が判りません」と言うだけの人間に、あなた方は手術の執刀を委ねられるとでも言うのか?


少なくとも、事前に「こうやったら、こうなるだろう」という予測が成り立ってはじめて任せるんじゃないの。経済学者は、全然違うでしょう?
これまで、専門家だと言ってた連中の説明は、ほぼ「ハズレ」とか「間違い」だらけなんだよ。出鱈目しか言ってないような連中の、何を信用しろと?
だから、生きたデータをよこせ、とか無謀な要求をする前に、これまでのデータの中から何を学び何を説明することができるのか、ということについて、実力を先に提示するべきだ。それができてはじめて、次への段階に進む資格を得ることになるだろう。


日本の経済学の出鱈目さを最も表しているのが、デフレだろう。
当初から間違った答えを言い続けてきたのが、経済の「ナンとか」の類だろう。それは、大学の教授なんかもそう、アナリストだか評論家だかもそう、果ては日銀の中の人たち、霞が関官僚、銀行・証券関係者、経済界のご意見番、等々がこぞって間違っていた、ということではないか。ごくごく一部には傾聴に値する意見はあったが、圧倒的に多くがウソを言い続けたわけだ。
不良債権処理をせよ、不良債権がデフレの原因だ、処理をしなければデフレは治らない、と散々言ってきた連中が大勢いたが、不良債権処理が終わった現在までもデフレのまんまではないか。これをヤブ医者と呼ぶのだろ。ニセ療法を蔓延させてきたのは、経済学者のボンクラどもなんじゃないのか。


日本の経済学界の問題というのは、そんな「生きた経済」に触れる機会の多寡なんかではないぞ。もっと根本部分から正さない限り、決して治らない。「研究」というものは何だろうか、どうあるべきなのか、ということから始めないと、今の出鱈目体質は決して変わらないだろう。ニセ科学やニセ療法の類と見分けがつかない、ということだ。それは、教える側の問題だ。つまり、これまで権威とされてきた側にこそ、解決するべき大問題がある、ということだ。それを正さない限り、無理だな。



記事中から、再び引用してみる。

『また、日本語による論文がネックになっているとの見方もある。ノーベル賞では、論文の引用量の多さが選考に大きく影響するが、日本語で論文を発表すれば海外の研究者の引用は望めない。
 日本経済学会は1995年、英文で出版された学術論文などで国際的な業績を挙げた45歳未満の若手経済学者を表彰する「中原賞」を創設。海外の大学で研究する経済学者など、若手の発掘に寄与している。
 さらに、世界経済が直面している不況の原因や金融財政政策に関しては、日本人による研究の方が、欧米諸国より進展している事例もあるという。』


日本語の問題、というのは、確かにあり得る。ただ、本当に素晴らしい業績を残しているならば、言語には無関係に「教えを請う」という人たちが大勢表れるだろう。単なる言語の問題とも思われない。
それに、英語ばかりではなく日本語でさえ査読ペーパーすらないのに、教授だののポストに就いてる連中が大勢いるではないか。日本の経済学者のレベルなんて、所詮そんなもんでしょ?学位取得だけじゃなく、教授や准教授だって「まともな英語論文」なんて書いてなくても、誰でもなってるんじゃないですか?(笑)


当方は経済学の学術誌でどんなのが著名とか、日本語雑誌で権威あるものとかは知りません。当方がこれまで見かけた論文や大学教授なんかの傾向を見ると、体系化されていないものが多いように思う。30年くらい一途に調べる、というようなことも殆ど見ない。英語論文がイヤなら、日本語論文だけで完結できるような、きちんと体系化されたものを築いてみよ。ニッチな部分を担当する研究者たちが数多く結集するような、地道な積み上げによってのみ、それは達成されるだろう。今の日本の経済学界にできることとは到底思われないが(笑)。


当方の直感だけで表現すれば、マクロ経済(学)というのは、言うなれば人体の全体というか「臨床」系である。これに対して、ミクロ経済学の理論というのは「基礎」系―例えば分子生物学、生化学、生理学…等々―であり、マクロへの裏付けというか理由付けとして本来存在するものであろう。そのような体系化がないのが、日本の経済学である。
そして、滅茶苦茶な理屈を平然と並べ立てる連中が、肩書きと政府(行政)に関与できる立場(例えば各種の審議会委員など)を与えられていることが多いので、余計に事態は悪化するということだ。経済運営は間違った方向へと突き進む、ということである。


そんな連中に、ノーベル賞もヘチマもあるかっての。
そういうこと以前の問題。
まず、学問としての体裁もレベルも「まるでなっていない」としか思えない。そんな胡散臭い宗教じみた学問や学者を、信じろ、と?
妄言を吐く連中を、一体誰が信じると言うのだろうか?


まずは、東大や早慶の「名ばかり教授」みたいな連中をどうにかしないと、日本の経済学がまともになることなんぞあり得ないだろう。



東大とかの「教授」でもこんな感じ、ということで具体例を紹介しておきましょう。


http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4784b3ea2d589ab6844ccfae7edbf388

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/da594fe367e37bd2e129c1c74a11da30

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/4f863c0f759aaa58a4f101f1c8857aa0

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/d4a16426c59a2c16f8c8db9fa063b815