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細田守作品はバトルの宝庫?〜『おおかみこどもの雨と雪』

物議を醸し易い何かでもあるのでしょうか(笑)。
細田守監督の本意とは裏腹に(?)、許さんぞとかサイテーとか言う人が出てくる不思議。

http://anond.hatelabo.jp/20131221145625


まるで全否定。ここまで拒絶というのも謎だ。ま、個人の感想に過ぎません、ってなものだから、どういう意見を言おうと自由なんだけどさ。


ぼくもテレビで初めて鑑賞しました。
一言で言えば、面白かった、ちょっとウルっと来た(因みに、ぼくが”泣けるドラマ”というような言い方をする時には、〜できるという可能の表現ではなく、「自発」です。日本語用法として間違っているのかもしれませんが、何もしなくても自然に泣けてくる、という意味です。なので、毛嫌いしないように、笑)。


まず、花というお母さんのこと。
ワイワイ大勢の友達がいるわけでなく、いわゆる「リア充」という人ではないけど、簡単に言うなら「一途」という人。そして、狼男と恋に落ちることができるのも、秘密を守れるというのも、そうした性格ゆえだろうな、と。理屈で考え、論理的に受け止め、行動できる人。割と男性的で淡々と(サバサバ)している。

困難に突き当たると、何故か「アハハハハ」というマンガの字なら、へにゃへにゃした文字になっているような、不気味な笑いが漏れる。信念があり、根は頑固者なんだけど、笑いのせいで、そう見えない。芯が強いから、友達とつるまなくても一人で行動できてしまう。周囲の助けを借りないような印象を与えたのは、「まずは自分で解決しよう」としてしまうタイプの人だから。自立心に富む、ということでもある。だから、学生時代でも出産後でも、人に頼らない。
それに、干渉を拒絶したのは、狼の子という秘密を何が何でも守り通さねばならなかったから。


子育ては、ただでさえ近隣から「泣き声がうるさい」「走り回る足音がうるさい」などと苦情が出たり、トラブルになっているケースは多い(公園や校庭の子供の声がうるさい、とか、吹奏楽部の練習音がうるさい、ということで法廷闘争に発展していたこともあったはず)のに、女手ひとつでは困難が増すに決まっている。マイノリティを迫害する、といったようなことではなくて、世間の一般的な反応がそうだ、ということ。

田舎暮らしは、ほぼ選択の余地がなかったようなものである。

偏屈な頑固爺さんが出てくるが、花に畑のことを色々とアドバイスしてくれる。どうしてなのか不明だけど、いつも気難しい不機嫌そうな顔で笑顔がない。そういう生き方をしてきた戦前派の90歳だ。だから、ヘラヘラすんな、みたいに言うわけだが、いつもニコニコして困難を克服してきた花と、対照的に描かれている。実は二人は似た者同士で頑固なのだ。
「人の力に頼らない」で生きてきた彼女にとって、田舎の「うざい」人々は面倒もいっぱいあるけど、自分と子供達を受け入れてくれたことが、何よりも重要だった。自分が都会で生きてきた「感じ」からすると、思いのほか、周囲の人々というのはお節介でやさしいんだ、ということを知った。
本で学び、大学でもたくさんの知識を身につけてきたけれど、「生きる」というのは頭でっかちの知識では克服できないこともある、と知った。誰かの助けを借りたい時には、頼ったっていいじゃないか、と。自分がしっかりしなければ、自分が育てなければ、と自分を追い込むことはないんだ、と。


そして、こどもたち。
姉は人間社会に適合して、自分をコントロールして生きていける術を持っていた。しかし、弟の雨はうまく適合できず、孤立を深めてゆく。弟が男ではなく、女の姉妹であったなら、二人とも人間社会に生きることができたかもしれない。

この物語の最大のポイントと思ったのが、女の親、つまり母親は、男の子を教育できる限界がある、ということだ。男を一人前の男に育てられるのは、やっぱり男なのだ、と。父親がいない家庭においては、社会が、それとも仕事で、そこにいる男(先輩や上司や先生など)が、男の子を一人前の男にしてゆくのである。


花には、それができない、そして、「分からなかった」のだ。だから、動物園にいた、年老いた狼に尋ねたのだ。教えて下さい、と。


雨は、人間として生きることもできた。家族との生活やつがなりを大事にしたいなら、母の下にいて、一緒に暮らせばよかった。しかし、雨は山に入って、「先生」と呼ぶキツネに、生き方を、そして仕事を習い、学んだのだ。雨が「男」として決断したのは、「義」であった。「情」ではなかった。「おとこの子」から男へと成長・飛躍する瞬間だった。
もしも我慢して人間社会に溶け込むなら、それはまさしく「檻に閉じ込められた狼」そのものだったのだ。あの老狼は、その表象だ。苦痛に耐え、仕方がないと諦めて生きるなら、それは、牢獄のような檻に閉じ込められた一生ということなのだ。

雨は、そういう選択をしなかった。
檻に閉じ込められて生きるなら―安全で食事も簡単に手に入る―、もっと危険で苛酷な環境かもしれないけれど、やりたいことがやれる、自由な生き方をしたかった。そして何より、雨は「自分のやるべきこと」を自ら見つけたのだ。それが、「先生がやってきた仕事」だった。山を守る、という仕事。「誰かがやらなければならないんだ」という雨の言葉は、その「義」を第一に考えた証だった。


山を守るのは、別に守神になるとかではない。自然の秩序、自然界の掟(食物連鎖、とかだな)、そういうものを維持してゆくということだ。これまでは先生(キツネ)がやってきた役割だ。その役割を全うする為、母たち家族を捨てても、実行する決心をしたのだ。



一方、雪は、人間社会に適合することを選んだ。弟が義なら、雪は「情」だ。情とは、好きな男と生きること、そして、「血を残す」ことだ。女の本質部分というのは、まさにこれなんだ、ということ。だから、転校生に「自分の正体」を明かしたのだ。好きでなければ、転校生を避けたりはしなかった。過度に意識するあまり、「におう」と言われたことが深い傷となり、もっと「嫌われてしまう」ことへの怖れが増大した結果が、あの流血事件を生んでしまった。

女である限り、好きな人と一緒に生きてゆきたい、というのが一番の願いなのであり、人間の男の子を好きになっているわけだから、それは必然的に人間社会に人間として生活してゆく、ということを意味する(死んだ父ちゃんが何故人間社会を選んだのかは、分からない。本を読むとか勉強するのが好きだったから、なのかもしれないが…)。
きっと雪は人間社会でもぐいぐい生き抜けるだろう。母親譲りの逞しさがある。そういうキャラ設定なのだと思う。母から、女性としての生き方を学び、母親が娘に生きる術を伝承するだろう。「狼の血」を引く者としての、人生の乗り切り方を。




そういうわけで、子供には不向き、とか、家族では無理、みたいな意見は、謎ではある。むしろ、子供たちに観てもらった方がよいのではないかな、と思う。ああ、ふしだらな女、というような評価が出るから困る、ってことなのかな?



こんなご意見もあったよ。

http://izuremo.hatenablog.com/entry/2013/12/22/005732

良かった、肯定的な意見もあって。