怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

言論の法規制に反対する〜2

続きです。

ヘイトスピーチに関する法的な規制をすべき、という意見は、そう突飛なものであるとは思っていません。人権擁護に関する法律の制定を要望するということは、前からあったものです。今回の話が出るずっと以前の05年頃から、人権擁護法案について記事に反対意見を書いたりしたので、むしろ懐かしく思います。


法的規制の考え方とか法の主旨としては、人権擁護法ヘイトスピーチ規制もほぼ近いように思えるので、理解はできます。しかし、法規制をするべきか、ということになると、立法による規制はすべきでない、というのが拙ブログの見解です。この基本的考え方は、人権擁護法案の頃と同じです。



参考:

08年4月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/a4b29ea643b15e79465e36e66028394c

08年9月>http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/da2ed47dbb44c2a1d23208b11a266b60



最も主要な反対理由としては、運用する側である行政庁を信用できない、ということになりますでしょうか。法の解釈・運用の権限は、行政庁にあります。彼らは、多くの場合、そう滅多に酷いことはやってこないであろう、とは思いますけれども、それはいつ何どき豹変するか判らないものです。滅多にないことでも、たまにはあるという印象です。


適用次第では、規制を強化することだってできてしまいます。
最近だって、辺野古沖での規制権限発動においては、刑事特別法適用だと海保が言ってたわけでしょう?それを合法だ、当然の規制だと賛同していた普通の人々は大勢いたんですよ。
陸山会事件においても、検事の捏造調書は違法を問われず、秘書だった石川元衆議員は虚偽記載の政治資金規正法違反で立件有罪となったわけです。何故検事の虚偽記載は無罪で、石川元議員は有罪なのであろうか?
それは、法の運用側に決定権があるから、です。検察及び裁判所は、司法権を悪用することも平気でやってくる、ということなのです。間違って書いたとしても、形式的に虚偽記載だとこじつけることができるなら、「有罪にできる」ということです。


従って、規制権限・法の運用権限を持つ権力側の胸一つで、やりようによってはいくらでも犯罪とできる、ということです。鑑定結果をジャーナリストに見せれば秘密漏示罪にだってできてしまうんですよ。鑑定とは医業である、というトンデモ論だって、いくらでも生み出せるんですから。


故に、法があれば、狙い撃ちをする意図があるなら、いかようにだって立件・有罪とできる可能性はあるのです。



そうであるのに、ヘイトスピーチについての法的規制であれば悪用されない、などとは到底思えないわけです。むしろ、それを口実として、いくらでも規制強化が可能であるという危機感を持つべきでは。


或いは、かつての日本での検閲みたいなのと似た状況を生む可能性だってある。非国民の名の下に、行き過ぎた「自主規制」「自己検閲」といったような風潮があったものと思われ、そういうのが復活しないとも限らないでしょう。監視社会っぽい炎上騒動は、現代においても起こっています。不届き者を徹底的に叩くことが行われた。
言論の法規制を認めることになれば、権力側に検閲の口実を与えかねないのではないか、という不安がある。それとも、自主検閲と称した、ネットでの炎上に類する攻撃が横行するかもしれない。日本では、そういう傾向があるやもしれません。



言論の自由を規制するのなら、その弊害や危険性についての吟味が必要であることは誰しも認めることでしょう。それが本当に必要不可欠なのか、法規制の実施については慎重であるべきでしょう。


現実に法規制が実施された例があります。鳥取県の条例でした。


鳥取県人権侵害救済推進及び手続に関する条例

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B3%A5%E5%8F%96%E7%9C%8C%E4%BA%BA%E6%A8%A9%E4%BE%B5%E5%AE%B3%E6%95%91%E6%B8%88%E6%8E%A8%E9%80%B2%E5%8F%8A%E3%81%B3%E6%89%8B%E7%B6%9A%E3%81%AB%E9%96%A2%E3%81%99%E3%82%8B%E6%9D%A1%E4%BE%8B


多数の批判や、弁護士会からの意見などもあり、結局は廃止されることになったということです。他に解決できる代替手段などがあるのであればそれを考えるべきであるし、本来的には言論には言論で対抗するのが筋であると思うし、反対者の存在や間違った意見の存在も容認するべきなのが、望ましい社会ということなのではないか、ということであろう。


デモ隊が差別的デモを実行しようと道路使用許可が申請されているのであれば、警察が「こういう差別的発言を繰り返すようなら、二度と使用許可は認めない」と拒否すれば現実には実行不可能とすることができるでしょう。著しい人権侵害は、強行規範で禁止される行為であり、道路使用許可はそうした違法行為を実施させる為ではない、ということで、警察の不許可は合法的処分であると説明できるのでは。



一応補足しておきますが、拙ブログでは、辺野古沖の埋立工事を停止させるには、国に対抗する手段としての立法措置を行うべき、と主張しました。

http://blog.goo.ne.jp/critic11110/e/7366ef7a2b743fa6d860d3014bf45c98


これは、規制対象が多くの一般人ではないこと、国の横暴というべき基地建設強行に対抗する手段とすること、近年の環境・生物多様性・景観保護という行政側の義務化と住民利益保護の判例の流れがあること、などから、立法措置が妥当なものであると思います。

人権擁護も環境保護も条例制定で変わりがないじゃないか、というふうに考える方がおられるかもしれませんが、規制対象と広範に及ぶものかどうか、国民の基本的権利にどの程度関わることか、という点で言いますと、沖縄県での保護条例は比較的限定的なものであると考えています。