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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

厚労省の年金漫画はそんなに酷いか

かなり不評のようだけど、オレのようなオヤジからすると、そんなに言うほどではないんじゃないかとしか思えないわけだが。

http://pokonan.hatenablog.com/entry/2015/01/13/141330


まあ、若年世代からすると、「私たちはこんなに不利で虐げられている!貧乏で悲惨な生活をさせられている!」という思いはあるかもしれない。それに、年金だって、本当に将来もらえるかどうかも不明だしね。不安に思う気持ちは分かるよ。

だからといって、「親世代とかはズルい!」「年長世代のせいでワシらは不幸になったんじゃ!」とか、そう単純ではないような気がするけど。


この際だから、はっきり言っておく。
炎上覚悟で(笑、まあないと思うけど)。
オレからすると、「何、甘えたこと言ってんの」だな。「ぬるま湯に浸かってんじゃねーよ」とかだな。こういうことを言うと、定番の非難があるのは当然承知している。しまいには、役に立たないクソ上司、ブラックの手先、ブラックを生む、社畜だ、なんてのが出てくるわけだな。
個々人の具体的事例に目を向ければ、頑張ってる若者も大勢いるし、立派な若者は多数知ってるし、学校に行きたくても行けないとかの人もいたりする。奨学金の借金を抱えて、低賃金で苦しんでいたり、貯蓄もできないとか金銭も時間も全く余裕がない、といった問題があるのも承知している。

だけど、政策面を考える時には、できるだけ個人レベルの話に落とし込む前に、もっと大きな視点で考えてもらえればと思う。具体的には、自分と同じ年に生まれた人全部、みたいな。それとも、前後5年くらいの同世代、といったような。そうじゃないと、政策的な妥当性を考えるのは難しいんじゃないかと思う。



感情面での話は、とりあえず措いておく。
金の勘定の話ね。若い人たちは、そっちが大事で関心もあるはずだから。


まず、簡単に言うとして、「今20歳の若者は、50年前に20歳だった人と同じ年金額を貰うのが当然だ」とか、我々にもその権利がある、というのが果たして妥当なのかどうか、だ。

これは、色々な考え方、評価方法があると思う。あくまで自分は何を重視し、選択するかという違いであろう。無条件に年金額は同額であるべきだ、というのは無理があるように思える。


論点をいくつかに分けて考えてみたい。
2015年時点で65歳の人と、20歳の人とで比べてみることにしましょうか。切りよく1950年生まれ、後者は1995年生まれということにしましょう。



1)人口構成上の問題

今は寿命が延び、人数もはるかに多い。65歳以上人口が10%以下だった時代と現在のような26%の時代では、年金の受取人数増加と受給年数延長というダブルパンチに見舞われているので、当然年金財政上は苦しくなるでしょう。高齢人口比が10%を超えたのは84年頃ですから、これほどのスピードで高齢化が進展するとは昔の人たちは想像できなかったのではないでしょうか。



2)教育面の違い

現在の大学進学率は50%以上。1950年生まれの人たちは、高校進学率で約70%、大学進学率では約20%でしかありませんでした。同じクラスの3割は中卒で働いた、ということです。彼らが18歳になった1968年に大学に入学した人は約30万人弱、短大が7万人くらいで、専門学校ができるのは1976年以降なので、進学者自体が非常に珍しい「お坊ちゃん」とか「エリート」みたいな存在だった、ということです。

1950年生まれが233万人だったので、残りの約200万人の人たちは、中卒か高卒で働いて、社会に貢献し税金を払った、ということです。

一方、1995年生まれは僅か118.7万人しかいませんでした。約半分ですね。この世代の大学進学率は約53%、専門学校約17%です。何らかの高等教育機関への進学は約78%となっていました。高卒で就業したのは僅かに17%に過ぎません。

50年生まれは約70万人が中卒で働き、稼いで税金を払ったわけです。95年生まれの方は、18歳時点でも働く人が約20万人、進学者は92.6万人ということです。


これら教育された人たちは、これも当然だと感じているのかもしれませんが、あくまで投資という形を取るのであり、上の世代が受けられなかった先行投資を先に多額に受け取っている、ということに他なりません。しかも、中には大卒後にやりたいことが見つからず専門学校に入り直す、という人もいるでしょうから、投資額は更に多くなりますし、大学院などに進む人も増えましたから就業までの年限が延びてしまっていると思います。


大学卒業まで教育を受けさせるのにかかった費用は、若年世代では「既に社会から受け取ったお金」を意味します。中卒や高卒で働いた約200万人の50年生まれの人たちは「受け取っていないお金」に他ならないのです。

仮に18歳時点で預かった1000万円があって、これを65歳時に精算することを想定してみましょう。47年の平均利率が2%とすると、47年後の価値としては約2536万円に相当します。進学にかかる費用がどれくらいか分かりませんが、1000万円だとしても前払いを受けた価値は、それだけあるということです。一般に、給与体系は高卒と大卒者で区別されており、生涯賃金は大卒が数千万円は多いのではないかと思います。先行投資の意味とは、そういうものなのです。

中卒又は高卒で働いた約200万人の50年生まれの人たちが受け取っていなかった「教育投資」を数千万円規模で先払いされている、というのが、約92.6万人の95年生まれの人たちということです。


10代で働いてた高齢者たちから見れば、大した役に立つほど勉強しているわけでもなく、仕事ができるようになっているのでもなく、ただ皆が行くからという理由だけで、のんびりと学校なんかに行って、時間を浪費し稼げもせず、能力アップにつながるとは思えないような、好き勝手に遊んで暮らしているような連中は、「キリギリス的」存在にしか見えず、後で苦労するのも当然じゃないのか、みたいなことを思っていても不思議ではないのではないか、と。



3)子供を産むことの尊さ

この話題になると、一部女性あたりが「ムキーッ」ってなりそうなので、避けたい話ではある。
しかし、事実を事実として、よく考えて欲しい。

例えば、

  子供を1人も産まなかった女性は、3人産んだ女性と同じだけの年金を受け取れる制度であるべきか?

という問いに対する答えは、どう考え、社会としてどうするか、という話なのである。自分が65歳になった時、年金原資を払ってくれるのは誰か?当然ながら保険料を納める現役世代なのであるから、子供を1人も産まなかった女性には「払い手」が存在しない、ということを意味するわけである。これをどうするのか、と。これは、何も女性の話だけではありません。男性なんて、どうせ1人も産めやしないんだから、どんなに偉くなっても、女性には敵わないんですよ(笑)。

で、子がある世帯とそうではない世帯では、年金は平等でもいいのですか?
金銭面から厳密に考える、というのは、そういう部分にも踏み込まなければならない、ということを意味しているわけですよ。


極端な例で考えることにしましょう。
男女5人ずつの合計10人の社会です。各ペアがあって、5世帯になっています。年金はない世界です。各世帯ごとに完全独立の別会計制度にします。世帯Aは子供がゼロ、世帯Bは子供が3人、世帯C〜Eは子供が1人です。いずれ親世代が死ぬと6人の社会になることは確実ですね。世帯Aは子供がいませんから教育費はゼロで、全部自分たちの老後資金に回せます。けれど、長生きしてしまって、蓄えが尽きる、ということにはならないでしょうか?もしも独立会計を厳密にやって、長寿のせいで資金が途絶えたらどうしますか?
他世帯からすると、老後資金を貯めてなかったのは自己責任だ、と感じてしまうのではありませんか?だって、子供を育てる時には、その分我慢を強いられ非常に貧乏していましたが、子供が稼げるようになれば生産力がまだ残るわけですから。
世帯Bは子だくさんで生活が苦しかったでしょうけど、後からその果実を回収できることになるでしょう。生産力が2人だったものが3人に増加するわけですからね。で、子供ゼロの世帯を金が尽きたら見捨てるのが良い社会だと思いますか?


金保険なのですから、長生きした場合でも生活できるようにしましょう、という意味合いであるなら、子供の有無に関係なく保険をかけておきましょう、ということでよいのでは。厳密に言えば、子供の多い世帯は年金原資の払い手の人数だけでいうと多く受け取ってもいいのかもしれませんが、教育投資を社会が先に負担するので、将来その分多くお返ししましょうね、ということでバランスは取れているのでは。


結論としては、若年世代からすると、当たり前と思っていることは、必ずしも社会全体でもそうだということではないんじゃないかな、と。若年世代が思っているほど、世代間格差なんて大きくないのではないか、と。
それから、10人しかいない社会の例で見たように、次の世代では3ペアしかできず合計6人の社会になってしまいますよね。現状の日本は、これに類する状態でしょう、という話です。いずれ衰退し消滅する危機がくるかもしれません。なので、子供の誕生そのものが尊いのであり、社会全体の「宝なのだ」というのは、ずっと昔から言われてきた通りで、何ら変わってないということです。


もっと社会全体で子供の面倒をみてゆくようにしないと、もっともっと減ってしまうでしょう。「お母さんは無条件に尊いのだ」ということを肯定すべきではないですか、ということです。特別な才能とか、仕事のできるバリバリのスーパーウーマンとかではなくてもいいじゃないですか。子を産んだというだけで、尊いんですよ。でも、こういうことを言うと、子供の産めない女性の苦しみを分かってない、とか、女は子供を産む機械じゃない、みたいに言う人もいるんだけど、自己卑下や劣等感を持つことなんてないし、それをヨソにぶつけないでくれればいいだけなのです。
金持ちを見て、お金があっていいわよね、と毒づかれるような感じです。「お宅は子供があっていいわよね」みたいに言われても困るだけでは。いいじゃないですか、ある家もあればない家もある、ってことで。




<補足>


金保険料も無駄遣いがあった、あれが大問題だった、という批判ね。
それは、おっしゃる通りに無駄が大量にあったことは事実。
けど、その事業費総額は約6兆円くらいで、数十年に渡って使われた合計額なので、年金財政からすると大差ない。あの時の6兆円さえあれば、というようなレベルの話ではないでしょう。6兆円分が改善したとしても、運用収益程度の影響ではないでしょうか。


経済面での話であれば、90年以前に行われた頃では、年金財政がここまで苦しくなるということを想定できなかったはずです。
決定的なのは、低金利期間が25年も続くとは、誰にも予想ができませんでした。年率4〜5%の金利水準が当たり前だった時代からすると、2%以下、ましてやゼロ金利時代が10年以上も継続するとは到底想像できなかったでしょう。
これが運用収益面で不利になりました。

もう一つは、非正規雇用の拡大でした。
90年代までは、まだマシでしたが、ここ15年では厚生年金保険料の対象者が純減、ということで、労働人口の変化以上に、急速に厚生年金の保険料を払う人たちの数が減った。同時に、受け取る人数が毎年百万人レベルで増加してきてしまったわけですから、そりゃあもう火の車となりますね。で、団塊世代の受給開始前までには、ひと区切りつけないとどうにもならない、ということで、04年の年金改革が実施され、保険料率の引き上げがはじまったわけです。

まあ、頭数が減ってる、ということですから、一人当たりの保険料額を増額するよりないわけで、それでも追い付かなかったわけです。
それはどうしてかというと、高額年俸世代(おじさんたちです)がリストラされたり定年退職となって、代わりに若者が入るので、純人数が同じでもやっぱり保険料収入は減るわけです。それに輪をかけて、非正規雇用者の拡大で社会保障負担から外れている若者が増加したんですから、年金財政は苦しいに決まっています。

そして、デフレの影響により賃金が上がるどころか低下した。賃金が下がるとやっぱり保険料は下がるわけで。
そういうのが重なって、年金財政を圧迫しました。

政府の無駄遣い、といったレベルの話は、影響度が微々たるものでしょう。勿論、無駄はよくないんですけどね。