怒りのブログ別館

【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

トヨタを救った男たち

いよいよクライマックスを迎える『半沢直樹』のドラマのようなお話を。
偶然、豊田英二氏ご逝去の報に接したので、書いてみました。架空で、当方の想像で書いてます(wikipediaなんかを参考にしました)。


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%B3

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BD%8F%E5%8F%8B%E9%8A%80%E8%A1%8C#.E7.B5.82.E6.88.A6.E3.81.A8.E8.B2.A1.E9.96.A5.E8.A7.A3.E4.BD.93-.E5.A4.A7.E9.98.AA.E9.8A.80.E8.A1.8C

http://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/taking_on_the_automotive_business/chapter2/section6/item6_a.html




・1949年2月1日

GHQ経済顧問として、デトロイト銀行頭取ジョセフ・ドッジが来日した。彼は、日本経済を評して、「竹馬経済」と呼んだのだった。片方の足は米国からの援助、もう片方は政府補助金という名の援助というものだった。竹馬の足を高くし過ぎると首を折る=日本経済の破綻、が仄めかされていた。

つまり、日本経済というのは「ゲタを履かせてもらっているものだ」、ということであった。戦争で滅茶苦茶に破壊された日本人なんかに、経済復興を遂げるだけの能力なんぞありはしない、と思われていた。ましてや、鉄鋼生産、各種工業製品輸出、よもやの”自動車製造”などといった「近代的工業製品」を生み出すことなど、到底許し難いことだった。

日本人の経済など、所詮は実態とはかけ離れた「大きく見せる」だけのものだという決めつけがあった。日本人は自ら生産などする必要などなく、アメリカから買えばよいのだ。その尖兵としての役割を担うべく、勇躍日本にデトロイトからはるばるやってきたのだった。


ドッジがGHQに進言した結果、「ドッジ・ライン」と称する厳しい金融・経済の引き締め策と統制経済(均衡財政、物価、貨幣供給量、貿易、生産量等)の実施が49年3月より始まってしまった。
これにより、インフレを抑え込む効果は発揮されたものの、過激な価格統制は経済の歪みを生じ、デフレを引き起こすこととなった。同時に不況―「ドッジ不況」―をも招くことになったのである。不況の波は、着実に中小零細企業を襲い、黎明期に過ぎなかった自動車産業界にも降りかかることになった。


・1949年10月

戦後の生産や販売というのは、いわゆる配給制となっていた。自動車も同様で、割当配給だったのだが、10月からは販売自由化が実施されることになった。売り惜しみ同然の効果を持っていた配給制から自由化に移行したことで、売り手側競争が始まった。月賦販売制の浸透もあって、販売代金回収の遅延問題というのが生じることになったのである。

そこに、ドッジ不況とデフレ経済が襲いかかってきたのである。自動車の売却代金の回収が困難となり、手形回収不能という事態が相次ぐことになった(月賦販売は代金分割払いであったので手形が用いられていた)。統制価格の不合理も追い打ちをかけた。鉄鋼価格が大幅に上昇し、鋼板を多く使う自動車の製造コストを大きく押し上げたのだ。
しかも、デフレ経済に陥っているから、自動車販売価格を値上げできない(統制価格だからだ)上に、賃金も増えないから買い手側の支払い能力も大きくダウンしていた。

こうして、トヨタ自工の短期資金繰りが急速に行き詰まることになっていったのである。


・1949年12月13日

3465万円の営業損失を出した11月に続き、12月に入っても代金回収の見込みは極めて厳しい状況であった。このままでは、12月中に資金が底を尽くことはほぼ確実であった。
12月の営業損失は1億9900万円ほどにも拡大し、販売手形買い戻し、借入金返済、協力工場への代金支払い、そして年越しの賃金支払い、これらを実行する資金はもう残されてはいなかった。

トヨタ自工の幹部たちは、金策に走り回った。師走だからというわけではなかったが、誰もが資金をどうにかする為に奔走した。
兎に角、貸してくれる銀行を探した。しかし、時はドッジ不況の折、不良債権をこれ以上増やすわけにはいかない金融機関ばかりだった。その上、”法王”の異名をとる「一萬田尚登日銀総裁」率いる日銀は、GHQに言われた通りに貨幣供給量を大幅に絞っていたので、金融機関には貸出余力のある所など、ほとんど残されてはいなかった。

このままでは、年末に不渡りを出すことになってしまう――。
なんとしても資金手当てを見つけるよう部下たちを鼓舞し続けてきた豊田喜一郎社長は、部屋に神谷正太郎を呼んだ。
何が何でも貸してくれる銀行さんを見つけ出すんだ、と厳命した。君の話には説得力がある、と言って、社長室を送り出した。

豊田社長は、販売能力の高い神谷君ならばきっと銀行を納得させられるに違いない、と信じていたのだった。そこで、中京地区でよく顔を合わせていた、日銀名古屋支店の高梨壮夫支店長に面会に行くよう、約束を取り付けたのだった。

この交渉に、トヨタの未来がかかっていた。


・1949年12月16日

日銀名古屋支店長の部屋に乗り込んだ神谷は、高梨支店長に深々と頭を下げた。非常に穏やかな高梨の目を、神谷はじっと見つめた。
「高梨支店長、無理なお願いを何度も恐縮ですが、このままではトヨタは年末まで持ちません。潰れます。トヨタが潰れれば、城下町の300社以上の下請け協力工場もろとも、連鎖倒産します。そうなれば、名古屋地区の経済には大打撃となるでしょう。日本の自動車工業の夢も同時に潰えることになります。それは、再び日本が敗戦するということを意味するものです」

高梨支店長は黙って聞いていたが、少し間をおいて口を開いた。

「神谷さんの言う通り、トヨタが潰れたら、この地区の工場はほぼ全滅するでしょう。そうなれば、経済の大混乱、そればかりか銀行もいくつか潰れることになるかもしれません。そのような事態となれば、これはもう、日銀としては黙って見ているわけにはまいりません。神谷さん、あなたの人柄は認めるが、それだけで資金を出すわけにはいかない。あなたに惚れたから金を出すのではないのです。名古屋地区で生きる大勢の人々―工場の工員、その家族、全ての取引先、工員が日々利用する商店街、風呂屋、食堂、それら全てをひっくるめて、名古屋の経済を潰すわけにはいかない、そういうことです。
だから、日銀としては、全力で金融機関の説得に当たります。まずは、最大の難関である、一萬田総裁をどうにか説得する必要があるでしょう。総裁さえ認めてくれれば、融資実行は可能になるはずです」

「ありがとうございます。どうか宜しくお願い致します。会社でできることは何だってやるつもりです。」
「融資可能となる条件は厳しいものがあるかもしれませんが、それでもよろしいでしょうか?」
「お願い致します」




・12月18日

住友銀行頭取は、急遽日本橋の日銀に来るよう呼び出されていた。
何でも、一萬田尚登総裁から急な話がある、ということだった。ホールでは、三菱銀行の屋号の使用を禁止されていた千代田銀行頭取と、帝国銀行頭取も一緒になった。日銀総裁が何の用なのだろうか。また”法王”の我儘か、エリート風を吹かせた無理難題でも押し付けられる算段でもあるのだろうか。そんなことを考えながら、銀行頭取たちは部屋に入って行った。

一萬田総裁は憤然と切り出した。
「何でも、名古屋や大阪支店のあたりで、お宅らの銀行に問題が起こっているそうじゃないか。名古屋支店長の高梨という男が、銀行を集めて説得しているらしいんだ。トヨタが潰れそうだから、つなぎ資金をどうにか緊急で用意してくれ、ということだそうだ。その高梨支店長とは、今夜会う約束になっているのだ。
で、トヨタというのは、本当に救う価値のある会社なのかね?私はね、自動車なんてものは、何も戦争に負けた日本で作る必要なんてない、と思ってるんだ。戦争に負けたのは、要するに飛行機のエンジンを作る技術が負けていたからだ。アメリカは、日本よりもはるかに優れたエンジンを作れた。車だって同じなんだよ。そんなアメリカのいい車があるのに、なんで日本で劣った車を作らなくっちゃならないんだ。それは道理が立たないよ、と、そうだろう?」

どの銀行頭取も答えを見つけられなかった。一萬田の言う理屈は間違いではなかった。住友銀行頭取は、ややひきつった笑いを浮かべながら、「総裁のおっしゃるのはごもっともです、わたくしも同じく、日本の産業として自動車はどうなのかな、と、かねがね思っておりまして…競争に勝てる見込みは薄いでしょうな、やはり」とご追従を述べたのだった。

日銀総裁としては、トヨタに融資をして救済するのは不本意である、ということだった。その意向を汲んだ住友銀行は、倒産寸前のトヨタから資金を回収することを決することとなった。


一萬田総裁と高梨支店長の会談は、その夜行われた。
高梨支店長はトヨタが名古屋地区の経済に与える影響について、縷々説明をしていった。一萬田総裁は、そんなことは言われずとも判っていると言いたげで、うんざりした様子で聞いていた。他の日銀幹部も同席していたので、銀行幹部なんかに対する態度のような傲岸さを発揮するのは我慢していた。そうでなければ、途中で話を遮っていたろう。

一萬田総裁は、最後に傲然と言い放った。
「この国際分業の時代に、日本に自動車産業なんか必要ないと私は思っている。日本で作るより、フォードやGMを買えばいいんだ。それが一番合理的なんだよ。経済学の論理的帰結は、そういうことだ」

高梨支店長は、念押しをした。
「各銀行などが融資するか否かの判断をするのは、あくまで自主的なものです。日銀サイドが融資するな、といったような、箸の上げ下げまで口を出すことではない、ということでよろしいでしょうか?一方、金融機関の資金需要に対しては、日銀としては対応せねばなりませんから、年末の需要増に対しては名古屋支店にも必要量の資金供給は確保できる、と考えて宜しいですね?」

日銀幹部たちは、黙って頷いた。
高梨支店長は、年の瀬の「大量資金需要の目処」はたった、と心の中で思った。あとは、各銀行頭取にお願いに行くだけだ。
一萬田総裁は苦虫を潰したような顔で、を睨んだままだった。


・12月20日

トヨタ自工が倒産するかもしれない、という噂は名古屋地区で知らぬ者はいなかった。取引のある下請け企業の社長たちも「本当に大丈夫なのか、払ってくれるのか、支払いがなければウチが不渡りを出して倒産してしまう」と、戦々恐々となっていた。有力な協力工場の中には、支払いを待ってもいいと言って、長年の信頼関係を大事にしてくれる会社も多かった。資金の余裕のない会社が圧倒的に多く、「ドッジ不況」のデフレ作用の爪痕は非常に深く厳しいものだった。

当然、トヨタ自工の従業員たちにもその噂は広まっていた。年末の賃金が出なければ、正月を越せる金がない。一体どうなるんだ、と見守っていた。労組幹部たちも緊急会合を何度も開いて、対応協議に追われていた。

かつて、幾度となく労働争議で衝突してきた労組ではあったが、会社の存亡危機となっては運命共同体であった。経営陣と協力する以外に生き残れる道はない、と腹を括って、給料を待つか減額されるのは我慢するとして、首切りだけはできるだけ避けたい、という思いだけだった。倒産することを避けられるのなら、労働条件は妥協してもいい、と豊田社長に申し入れを行った。その結果、23日には労使の合意が取り交わされることになった。大量のクビ切りは避けること、再建計画遂行の為には賃金引き下げなどを受け入れること、等々であった。


・12月22日

豊田社長以下、会社の再建計画について、日銀の高梨支店長の指示もあって、メインバンクであった帝国銀行、東海銀行などの担当者たちとの最終的な詰めが行われていた。主要取引銀行のうち、住友銀行だけは難色を示していた。
住友銀行名古屋支店の小川支店長と融資担当の堀田常務は、一萬田総裁に逆らえない住友銀行幹部らの指示を受けて、トヨタ自工の融資打ち切りを決定した。堀田常務は豊田社長に
「機屋には貸せても、鍛冶屋には貸せぬ」
と断ったという。

これ以後、トヨタ住友銀行と取引することはなかったという(三井との合併まで)。

一方で、日銀名古屋支店において、高梨支店長主催の懇談会が行われた。
それは、トヨタ自工と帝国銀行や東海銀行など24行の銀行団との最終交渉の場であった。トヨタの再建計画を認めてもらい、緊急融資をするかどうかの判断をするということであった。
事実上のトヨタ自工の命運を決する判決の場となったのである。


豊田喜一郎社長は、再度銀行の担当者たちに強く訴えた。
この年末に年越しできなくなる人々のことを思うと、何としても倒産だけは避けたい。いや、避けねばならない。大勢の人を不幸のどん底に陥れることだけは、どうか回避して欲しい、と。
経営責任を取り、社長、副社長らは退陣する。経営刷新という要求にも応える。大勢の人たちを路頭に迷わせることだけはしたくない。だから、お力を貸してほしい。

ここに集まっていた24行は、みな一様に「トヨタ自工を救うべし」、「名古屋経済を守るべし」という気持ちで一致していた。日銀の高梨支店長の根回しと説得があればこその、一致団結だった。

高梨支店長は言った。
「皆さんのお気持ちはもう固まっておられると思うが、我々の使命をもう一度思い出してほしい。日本は敗戦したが、今もまた敗戦の淵に立たされているのです。この危機を乗り越えて、日本に自動車産業あり、という気概を見せねばなりません。日本人にはできるはずがない、というGHQアメリカを見返してやるのです。それが生き残った我々の、果たすべき使命ではありませんか」

トヨタ自工への緊急融資が決まった。
豊田社長ら、幹部たちは涙ながらに「ありがとう、ありがとう、あとをよろしく頼む」と固く手を握って回った。

再建計画では、販売部門の独立(トヨタ自販設立)と経営陣の入れ替えが条件となった。再建計画作成に尽力した、帝銀大阪支店長の中川不器男が専務として受け入れられた。


・12月24日

トヨタ自工の倒産回避の報は、瞬く間に中京地域に広まった。
日銀名古屋支店は、銀行団の1億8820万円の融資実行に備えて、年越し用の資金を大量に準備しておいた。日本橋の日銀本店から、既に資金移動は済んでいた。トヨタ救済資金という名目ではなく、銀行決済で大量資金が必要だから、ということで予め用意しておいたものだった。

トヨタ自工の取引先などに支払いが次々と行われ、従業員たちの賃金支払いも間に合った。

こうして、どうにか正月を迎える目処はたったのである。大勢の人々が不幸のどん底に落ちる一歩手前まで行ったが、九死に一生を得たのだ。資金を引き揚げて潰すのも銀行、融資して助けてくれるのも、やはり銀行なのだ。


日銀幹部を説得し、法王たる日銀総裁に反抗してまでトヨタ自工を救った高梨支店長は、ここで降りたら男じゃない、という思いだけでやり遂げた。
別にヒーローを気取りたかったわけでも、情に流されたわけでもなかった。ただただ日本が再び敗戦の苦渋を舐め、散っていった人々の悔しさや無念を晴らせないということだけは、避けたかった。
高慢なドッジ頭取やGHQの経済音痴どもに、ひと泡吹かせてやりたい、そういうこともあった。が、一番大事だったのは、そこに住む人々の生活だった。トヨタという会社が倒れることで、大勢の人々が生活を失う。そんなことを黙って見過ごせるはずはなかった。むざむざと惨敗させ、日本の自動車産業を失わせるわけにはいかないんだ、ここで戦わねば日本男児ではないんだ、という思いが、一萬田総裁への反抗を生んだのだ。


・現在

トヨタ自動車は、世界的な企業へと飛躍した。
自動車産業は決して引けを取らない産業になった。一萬田尚登総裁の言っていた「経済学の常識」を覆して、国際分業云々ではなく、幼若な自動車産業が世界に通じる産業へと発展を遂げた。
輸入した方が合理的なんだ、そちらの方が安くて良い製品が買えるからいいんだ、などという経済学常識を持ち出してくる連中は、大体が胡散臭いのである。


24行の銀行団の選択は正しかったのか?
それは歴史が検証してくれるだろう。