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【いい国作ろう!「怒りのブログ」】のバックアップです

夫婦別姓問題の最高裁判決についての雑感

まだ判決文を読んでいないので、詳細は分かりません。後日読んでから、追加で記事を書くかもしれません。とりあえず、報道での大雑把な情報から、当方の思うところを書いてみたいと思います。


まず識者の反応みたいなことで言えば、残念というか、最高裁の合憲判断に失望したというような受け止め方が多いように思います。再婚制限の判断に比べてしまうということもあるかと思います。


別姓問題の難しいというか不利になりがちな部分は、自民党のような保守層の現行制度維持派がこの問題以外のことに関して、ネガティブな反応を引き起こしがちということかと思います。
現行制度に賛成している面子をチラっと見れば、「ああ、こういう人たちなんだね」というのが、余計に低評価につながっているのではないかということです。


一方、別姓を法的に認めるべきという進歩派的な方々は、男尊女卑的社会に対し反発もあろうし、女性の立場重視云々といった旧弊打破のイメージがあったりします。

同姓である必然性ということからすると、現実問題としてどうなんだろうな、というのはよく分かりません。ただ、自分が生まれ育ってきた環境下では、同姓が当たり前だった、そういうもんだと思って生きてきた、というなので、良し悪しは別にしてそういう世の中だったんだ、ということです。


恐らく、最高裁としては、社会の重大な要請がある、という状態にはなっていないから、司法が「こうしなさい」と規範を示すべき段階にはない、と考えたものと思います。別姓にするべきだ、という意見が大勢を占めるほどに合意形成が進んできたわけではない、ということかと。
そして、そのような国民の合意形成過程がない現状においては、司法が動かし難い最高裁判例をもって「こうしろ」と言うには至らず、合意形成過程の重要な役割と担うのは「立法府であるべき」(=よく話し合って国会が国民に問題意識を定着させ合意形成をするのが筋だろう、なのでまずは国会でやれ)ということで、結論を急がなかったものと思います。


なので、当方からすると、判決に失望という受け止め方ではなく、別姓問題そのものを「問題だ」と感じている国民はむしろ少数派であって、解決すべき問題なら多様な議論と合意形成過程を必要とするべき「社会的制度・慣習の大きな変更」と考えるのではないかな、と。今回、別姓を合法とするべき、という意見が多数出されてゆくなら、国会での法改正の契機となるのは間違いなく、それからでも「間に合うのではないですか」という判断だったのではないかと思います。
(当方の個人的印象でも、姓名については結構大きい変化だと感じます)


判決がどうという話を離れて、自分の感覚的なことを述べたいと思います。
まず、国民の大多数が姓を名乗るようになったのは、明治維新以降でしょうから、歴史的にどうというのは、まだまだ大したことがないかな、と。昔から姓があった家柄の人々と同じような感じで社会制度ができてきた、というだけでは。

有名な豊臣秀吉が顕著な例ですが、昔は改名なんてよくあって、そんなに重大にしがみつくべきことなのかどうか、というのは何とも言えないかな、と。男だから名前を変えられない、とかっていうのは、ちょっと違うのかもしれないかな、と。それに、婿養子だけでなく、養子を受け入れるのは珍しくもなく、姓が変わった男子は昭和以前には今以上に多かったものと思います。


日本で代々家名を受け継いできた人たちの場合には、結婚というのは女性がその「家」に嫁ぐということで、「イエ」制度が続いてきたという理解です。
この「イエ」制度が不当に女性を縛り苦しめてきたんだ、という見方があるのは分かります。しかし、古い制度が何百年か継続してきたのには、その社会において一定の合理性なり理由なり意味合いというものがあったのではないかなとも思えるわけです。


それは、今で言う所の「法人」格と似た制度である、ということです。法人というのは、例えば会社名がずっと存続し、中の人たちは代が替わればどんどん変わっていきますが、法人名は同じままです。「イエ」の制度は、そうした法人の継続とほぼ似たものではないか、ということです。

織田家という家名があれば、会社名と同じような役割をしており、嫡子は社長交代みたいなものかと。会社でも社長は代々替わりますが、会社は同じく存続します。織田家家臣の○○家老の誰、というのも、△△商事に勤務する総務部長の誰というのも、ほぼ似たようなものではないか、ということです。

そうした○○家、という家名なり姓というのは、法人格と似たもので、社長は1人しか認められないから、次男三男は外のイエに出されていたわけで、男子が改名したり養子に入れば、それでよかったということでしょう。中には家名が断絶するイエもあるし、会社の倒産や法人解散みたいなものと似た状態もあったわけです。

必ずしも現代に適合しているわけではないですが、「イエ」の制度にはそれなりの意義があったものと思います。ただ、一部の人に姓や家があった時と、姓を全員につけるようになった時代では、同じことを拡大適用しただけなのにうまく行かなくなる部分も出てくるかもしれない、ということかと。

そして、子だくさんだった時代と少子高齢化が進んだ時代では、これもまた同じ制度下であっても、うまくいかなくなることだってある、ということでしょう。こうした、「うまくいかなくなる」とか「改善した方がいい」とか「制度を変えるべきだ」という評価や意見は、人によって違いがあるだろう、ということなのだと思えます。


「うまくいかなくなっている」と主張する人々にとってはそうなのかもしれませんが、そう感じないという人も少なくないかもしれません。今のままでいい、とか、今の方がいい、と考える人たちだって、どのくらいいるのか分かりません。100年以上の存続・継続性を考えると、名前を変えて一つに絞った方が有利かもしれません。鈴木と佐藤の父母から子供が1人しか誕生しない場合、どんな名前を引き継ぐのだろうか?
海外では父母の名前を全部受け継いでいることがあって、もの凄く長い名前となっている人もいるから、日本もそうした制度にすべきということなのか?


色々と考えてゆくと、一概にどのような制度が優れているのか、というのは、分かり難いものかもしれません。
ただ、日本には古い時代から、氏姓を長期に渡り存続させてきた仕組みがあって、それは法人の名前を引き継ぐのにも似ており、屋号でも○○組とか○○屋みたいなのが何百年か存在し続けてきた、という実績があるわけです。

今の時代に合わせて変革すべきという面と、旧来の制度の「長く続いてきたこと」を利点として見出し、これを継続する方がよいという面と、様々かもしれないな、と。ひょっとして「うまくいかない」と感じたり考えるのは、ここ20〜30年に特徴的な思考法なのかもしれず、100年後の時代にはやっぱりもっと古い時代の制度の方が良かった、と考え方が変わるかもしれないし。

資本主義は悪いんだ、だから、平等にする共産主義の方がいいんだ、という考え方が広まることもあったけれども、実際やってみると事前に考えていたように理想的とかうまく行くとは限らないってこと。社会が制度変更をやってみたら、予想と違ってうまく行かない部分ができたり、思いもよらぬ弊害や欠点を生じたりすることもあって、一時期の考え方だけに縛られてもダメかもしれない、ということはあるよ、と。


なので、議論というのは、多くの人の考えを聞いてみたりしないと、思わぬ結果を招くかもしれず、社会がそれでもなお「変えたい」という合意があって挑戦する決断をするなら、法制度なり社会制度なり新たな慣習としてそれをやってみたらよいのではないか、ということでしょう。


簡単には正解なるものを言うのは困難であり、社会全体が直ちに結論を出すのは難しいものである、ということかな、と。司法にこれを負わせるべきとも言えない、ということだろうと思いました。